脱炭素原理主義で起こっていること
現在、自然に関する問題を語るときに出てくる言葉には「エコ」、「気候変動」、「環境問題」、「ESG」、「SDGs」、といった表現がある。それらは大まかには方向は変わらないが、実はこのなかにはいくつものジレンマがある。例えば「気候変動」「脱炭素化」を中心に考えると「ごみ問題」と相性が悪いことがある。サーキュラエコノミーのためにはリサイクルが推進されるが、なかにはリサイクルをすることで莫大なエネルギーを使ってしまう物もある。現状では比較的リサイクルしやすいものを選んでリサイクルしているが、もしサーキュラエコノミーを強引に進めれば脱炭素とは逆行することもあり得る。
ほかにも、電気自動車や再生可能エネルギーは、従来のガソリン車や火力発電所と比べると5倍から10倍くらいの金属資源を用いる。そうすると、脱炭素すればするほど消費する金属資源の量は増えるので、金属資源の観点で環境のことを考えている人からすると、脱炭素はあまりエコではないということもいえてしまう。
しかし今はいわば脱炭素原理主義のような状態になっていて、それが「気候正義」の名のもとに正当化されている。サーキュラーエコノミーやリサイクル、金属資源の問題といった問題よりも、脱炭素は優先されているのだ。
さらに、脱炭素は気候変動で災害が起きることを防ぐために進められている面があるのに、脱炭素を推進するほど従来想定されていた災害対策が格下げされるという事態も起きている。今まさに干ばつが起きているところよりも、これから気候変動で干ばつが起きるところのほうがお金が回ってくるので、現在すでに問題が起きているところは後回しになってしまうことがあり、それが「正義」とされているのだ。
「気候正義」とは何か
今、「脱炭素」はそれくらい世界で大きな正義になっている。「地球全体に関わる問題」という誰もがなにか否定しがたいナラティブがあるためだ。「人類の責任」などといわれて突き返せる人は少数派だろう。
とはいえ、ここでいう「正義」は日本語のイメージとはおそらく異なる。Climate JusticeのJusticeは「悪を成敗する正義」という意味ではなく、単に「Justさせる」「ぴったり合わせる」くらいのニュアンスが近い。「不正義でなくす」くらいのイメージだ。「気候正義」という言葉のイメージが持つような押し付けがましさはあまり感じなくてもいい。おそらく日本人が「気候正義」にぴんとこないのはこの言葉のイメージの問題があると思う。
2021年11月のCOP 26ではおそらく過去最高回数の「Climate Justice」という単語が発せられたが、日本の報道ではほとんど使われなかった。「気候正義こそが重要なんだ」という言葉が、あまり視聴者に響かない ことをメディアがわかっているのだろう。それは日本人が単に“正義”という単語のニュアンスに上手に反応できないだけでなく、そもそも温暖化問題を正義の問題だというふうに捉えること自体にピンときていないからだ。このあたりにも日本人と特にヨーロッパ諸国の人々との考えにはズレが生じている。
ここまでの話で、読者は私が脱炭素に反対している立場の人間かと思われたかもしれないがそうではない。道徳的にする話と分析的にする話は別物である。私が脱炭素に反対しない理由については、さらに追って説明していく。(次回、「脱炭素が禍いの種になるとき」に続く))