村上陽一郎

村上陽一郎

ロシアのサンクトペテルブルクで2000年代に撮影。エルミタージュ美術館の前を観光用の馬車が走る。5月の終わりでもまだ気温は低い。当時のロシアは警戒心の高い人が少なくなく「川沿いを歩くな。写真を撮るな」と言われることがあった。

(写真:佐藤秀明

エリートとは、義務と責任を背負った人間である

理想的な社会を思い浮かべるとき、ほとんどの場合にそこには「平等」が含められる。しかし、本当に「平等」は絶対に是とされるべきものなのか。村上陽一郎氏が「エリート」を紐解く。

Updated by Yoichiro Murakami on February, 17, 2022, 8:50 am JST

行き過ぎた平等

エリートも教養も、日本社会では揶揄や蔑視のニュアンス抜きで語ることのできない概念と言えます。一人称の文章、つまり「私は」に導かれる肯定的文章の用言に、「エリート」が入ったり、「教養人」が入ったりすれば、これは、噴飯ものでしょうし、二、 三人称で同じ形容を試みたとしても、何がなし、棘が含まれているようで、使うのに躊躇いがあり、言った後では、慌てて、貶める意味ではないことの弁解を付け加えたりする習慣ができてしまっているように感じます。

そもそも、このテーマの書き始めに、このような姑息な弁解めいたことを書かねばならぬ、と感じること自体が、すでに、問題を素直に捉えられない後ろめたさがあるからに違いありません。実はエリートのための教養を、正面から論ぜよ、ということが、この書の課題設定であったのに、です。

私は大学の教養学部という学部を卒業しました。したがって、学士号は「教養隠し」 ――おや、「きょうようがくし」と打ち込んだら、私のワードプロセッサーは、まず 「教養隠し」と変換してくれました。機械さえ、教養は隠した方が利口だよ、と言ってくれているのでしょうか。そこでもう一度、打ち直します。学士号は「教養学士」なの ですが、八五年の生涯のなかで、この学士号を名乗ったことは、こうして、そのこと自体を話題にする時以外には、一度もありません。そもそも、全国に大学は数多ありますが、教養学部を持っている大学は、ほんのわずかです(最近少し増える傾向にありますが)。機会が無かったと言えばそれまでですが、そう名乗らなければならない場面を想 像してみると、ひどく面映ゆい気持ちが先に立つに違いないと思います。

「エリート」はどうでしょうか。先にも書いたように、一般的にも、自分でエリートを名乗るはずはありませんが、私個人でも、事情は同じです。内心ではどうか、と問われ て、これまでの生きてきた私の過去が、エリートとは無縁だ、と言ってしまえば、それはむしろ、これまでの私の生き方を可能にしてくれた両親や先生方、あるいは社会全体に、却って申し訳ない仕儀になるような気もします。

このような微妙な事情は、多少は日本の社会環境のなかから生まれる特殊なものかもしれません。特に戦後の「民主主義教育」の下で、極端に不平等を排除する、という傾向が徹底された結果の一つでもありましょう。

グランドティトン国立公園
グランドティトン国立公園の夏。2016年ごろ撮影。モルモン教徒はかつてこのあたりを拠点をしており、公園内には住居跡が残る。映画『シェーン』の舞台でもある。

早くも脱線するようですが、「一票の格差」がしばしば問題になります。国政選挙の際の地域間の人口格差の結果生まれる問題で、憲法違反かどうかが、司法でも争われ、 新聞の論調も酷く厳しいものです。しかし、一方に「代表権なくして徴税権なし」という原則があります。この原則は、アメリカ植民地が、イギリス(の王権)に対して闘わ ねばならぬ理由を列挙した、あの「独立宣言」で謳われている諸理由の中でも、最も合理的な論点の一つとされています。人口の少ない地域でも、納税義務が残っている以上、 代表権は「平等に」認められなければならないはずです。だとすれば、人口の少ない地域で、代表者がその資格を獲得する上での得票数が、大都市におけるそれよりから怪しからん、という理屈は、「平等」の理念の過剰からくる錯誤ではないでしょうか。あの「アメリカにおけるデモクラシー」の姿を描いたフランスのトクヴィルは、自由の行き過ぎは誰にもすぐ判るが、平等の行き過ぎはなかなか判らないうちに社会を蝕む、という意味のことを述べています。自由・平等・博愛を掲げたフランス革命を生き延びた貴族を出自に持つトクヴィルにして、初めて言い得たこととも考えられますが。

そういえば、熊本の大地震の際、避難所に逸早く自衛隊の救援部隊が到着しました。 補給部が携行食糧を多く積んでいましたので、避難所に提供することにしました。ところが避難所の責任者の方が、その食糧を開梱して調べたところ、避難所の全員に行き渡らないことに気付き、平等の原則に反するからと、梱包し直して、救援部隊に返した、 という話を聞きました。これなどは、「平等」なる価値に対する恐ろしく過剰な思惑のなさしめる業でしょう。ことほど左様に、現在の日本社会は「平等」という価値に囚われています。