村上陽一郎

村上陽一郎

ロシアのサンクトペテルブルクで2000年代に撮影。エルミタージュ美術館の前を観光用の馬車が走る。5月の終わりでもまだ気温は低い。当時のロシアは警戒心の高い人が少なくなく「川沿いを歩くな。写真を撮るな」と言われることがあった。

(写真:佐藤秀明

エリートとは、義務と責任を背負った人間である

理想的な社会を思い浮かべるとき、ほとんどの場合にそこには「平等」が含められる。しかし、本当に「平等」は絶対に是とされるべきものなのか。村上陽一郎氏が「エリート」を紐解く。

Updated by Yoichiro Murakami on February, 17, 2022, 8:50 am JST

Noblesse oblige高貴なる者の義務

はて、エリートからも、教養からも、直接には外れている話題に、いささかむきになってしまいました。もともとは選挙権の「平等」の話でした。ただ、「エリート」という言葉は、こじつければ選挙と無関係ではないかもしれません。英語では〈elite〉ですが、この語の元はフランス語(フランス語では〈élite〉になりますが)、さらに元を辿れば、ラテン語の〈eligere〉(不定詞、辞書エントリーでは<eligo〉)、つまり「選ぶ」の派生語(受動形に由来)で、意味は「選ばれたもの」です。更めて辞書を引いて見ましたら、英語、フランス語とも最初に出ている訳語は「選良」でした。今では死語に等しく、メディアでも全くお目にかからなくなりましたが、私が子供の頃は、新聞紙上、代 議士はしばしば「選良」と書かれていました。ただし、ヨーロッパの伝統では、「選ばれたもの」を選ぶ能動者は、選挙民ではなくて、神に他ならなかった、と言えるのでしょうが。「特別に神に選ばれたもの」、それが「エリート」のヨーロッパ的理解でした。

「神から選ばれる」とは具体的にどういうことか。神はある人を選んで、特別の「才能」を授けます。「才能」に当る最も普通の英語は〈gift〉ですが、「ギフト」はもちろん「贈り物」でもあります。フランス語では〈don〉が、ドイツ語では〈Gabe〉が、やはり「プレゼント」の意味でも、「才能」の意味でも使われます。つまり人間がある才能を有する、ということは、神から特別に「贈り物」を頂戴したことに他ならないのです。その結果、その人は、その才能の点で、衆に抜きんでることになる。それだけのことですが、神は、その才能を自分と人々のために使うことを期待して、彼(女)に才能を贈ったのですから、贈られた側は、それだけの義務と責任が生じます。それが 〈Noblesse oblige〉ということでもあります(このフランス語は、「高貴なる者の義務」のように、熟語として解されることが多いのですが、本来は「高貴なる者には、それなりの義務を課される」という一つの文章です)。つまり、エリートとは、普通の人々よりも、より多くの、より大きな、義務と責任を背負った人間であることになります。

神に選ばれた者」としての覚悟

かつて、イギリスのオクスフォーディアン(オクスフォード大学の出身者)の平均余命は、普通の人々よりも有意に短い、ということを示す統計があった、と言われます。オクスフォード大学を了えるには、衆に優れた才能が必須であって、彼らは、イギリスでは明らかに「エリート」に属するわけですが、その平均余命の短さは、彼らが率先して 危険な業務(特に軍務)に身を挺する結果であることの証左であった、と伝えられます。 少し意味は違いますが、日本でも、戦前、男性皇族はよほどの問題が無い限り、軍務に就くことが義務とされていたことを思い出します。例えば、昭和時代の直宮である大正天皇のご子息たちを考えても、昭和天皇ご自身、それに三笠宮、秩父宮はお三方とも陸軍、高松宮のみは海軍の軍人でした。

つまり、「エリート」の定義を更めて簡潔に述べるとすれば、「普通の人々よりも、より多くの義務を背負った存在」が適切ではないでしょうか。
その「義務」とは、神と他人とのために、我が身の安泰を顧みずに働く義務です。日本では、「神のために」という件は、文化特性上排除されているかもしれません。しかし「神」を「公徳」にでも置き換えて、エリートの意味を、この定義に基づく、とした時に、密かに我が身をエリートとみなしている人々は、本当にその覚悟があり、その覚悟に基づく行動を実践しているでしょうか。この問いかけは、自分も含めて、深刻な反省を導く性格のものです。

その点で思い出すことがあります。聖職者と言えば、ヨーロッパではキリスト教、プロテスタントであれば「牧師」、ギリシャ正教やカトリックであれば「司祭」(神父)のことを指します。そうでない、平の信徒は、英語では 〈lay〉と言います。カード・ゲームでは、切り札や絵札以外の札にも使われる言葉です。聖職者の職務は英語では 〈vocation〉というのが普通です(発音は多少違いますがフランス語でも同じ言葉が使われます)。この言葉のラテン語の語幹〈voca〉は、誰でも「ヴォーカル」〈vocal〉を思い 出すように、「声」に関係した言葉です。動詞 〈voco〉は「声をかける」、あるいは「呼ぶ」に相当し、名詞〈vox〉は、英語の〈voice〉と同じ「声」そのものです。ドイツ語では通常この言葉は使われませんが、類似の言葉に〈Beruf〉があります。現在ではこの言葉は「職業」一般に使われるようですが、元の意味は「天職」に近いものでした。〈rufen〉という動詞、つまり「呼ぶ」ですが、そこから〈berufen〉という動詞が生まれ、今では「任命する」などの意を伝えます。

何が言いたかったかと言えば、職業、とりわけ聖職務に関するものは、神からの「呼びかけ」、もっと積極的には、「神の命(声)」によると考えられてきた名残だと言えます。先に見たように、エリートとは本来「神に選ばれた者」という意味でした。神は、 自分(神)のために働いてくれる特別に才能を与えた人に、強く声をかけるのです。

イギリス生まれ、アメリカの作家、ジャーナリスト、ジャック・ロンドン(Jack London, 1876〜1916)は、『荒野の呼び声』(The Call of the Wild)という作品を書きました。アメリカ大陸北限の地でそり犬として飼われていたパックが、ついにはオオカミの首領にまで変身する有様を描いた名作ですが、二十世紀初頭では、声をかける(call) のは、もはや神ではなく、自然となっていることを知らされます。

ホテル・ニューグランド
横浜の歴史あるホテル、ニューグランド。1965年ごろ撮影。

しかし、とにかく、エリートとは、そうでない人なりに見て、(旧制高最も有名な寮歌『嗚呼玉杯に花受けて』には「栄華の巷低く見て」と、そのものずばりの表現もありますが)、自らの高さを誇る人々ではなく、そうでない人々のために、自分たちの命さえ差し出すだけの覚悟をもって奉仕する、あるいは奉仕しようとする人々であることだけは、たしかだと思います。