暮沢剛巳

暮沢剛巳

岡本太郎によってデザインされた大阪万博のシンボル、太陽の塔。今も万博記念公園に立ち、存在感を放つ。

(写真:Ilya D. Gridnev / shutterstock

反時代的なものこそが、
世代を超えて生き延びる

岡本太郎の思考からデザインの可能性を読み解く論考第3弾。今回はいよいよ「太陽の塔」に織り込まれた思想を分析する。

Updated by Takemi Kuresawa on March, 9, 2022, 8:50 am JST

デザインとしての「太陽の塔」

太陽の塔」といえば、誰もが知る岡本太郎の代表作であり、また未曽有の国家事業であった1970年の大阪万博のシンボルである。今回は、過去2回の議論を踏まえて、この「太陽の塔」をデザインという観点から考えていきたい。

1967年5月、岡本は「お祭り広場」のテーマ館プロデューサーへの就任要請を打診される。「お祭り広場」とは、東京オリンピックの終了後まもなく開催の決まった大阪万博の会場予定地に設けられる巨大な広場のことで、会場計画を担当していた丹下健三は、開会式などの様々なイベントが開催される予定のこの広場を、銀色の巨大な屋根で覆うことを構想していた。丹下の説得に応じる形で就任要請を引き受けたものの、もともとあまり乗り気でなかった岡本は、屋根を突き破るような塔を建てたいという無理難題を吹っ掛けた。その難題にこたえるかのように中心に大きな穴の開いた屋根のデザインを見たときの心境を、岡本は『岡本太郎の宇宙 対極と爆発』(ちくま学芸文庫 2011年)のなかで以下のように回想している。

まだその時まではプロデューサーを引き受ける気になっていなかったのだが、私の提案に、建設部門がこのように答えてくれた以上、やらないわけにはいかないと覚悟を決めた。よし、この世界一の大屋根を生かしてやろう。そう思いながら、壮大な水平線構造の模型を見ていると、どうしてもこいつをポカン!と打ち破りたい衝動がむらむら湧きおこる。優雅に収まっている大屋根の平面に、ベラボーなものを対決させる。屋根が30mなら、それをつき破ってのびる――70mの塔のイメージが、瞬間に頭にひらめいた。頭上に目をむいた顔を輝かせ、会場全体をへいげいし、まっすぐに南端の高台に立つランドマークをにらんでいる。こういう対決の姿によって、雑然とした会場のおもちゃ箱をひっくりかえしたような雰囲気に、強烈な筋を通し、緊張感を与えるのだ。私は実現を決意した(「万国博に賭けたもの」)。

さすがにここでは語られていないが、最終的には応じたものの、丹下は岡本の提案に対し当初強い拒否反応を示し、一時は両者が取っ組み合いのような険悪な状態になったという(岡本としばしば協働した丹下は、徹底して合理性を重んじるヘーゲル主義者であったため、両者の対決はある意味二つの弁証法の対決でもあったとも言える)。ともあれ、合理性と非合理性を対決させる「対極」は岡本の代名詞だが、ここでいう大屋根とベラボーなものの対決はまさにその産物だ。では「瞬間に頭にひらめいた」このアイデアは、どのようなプロセスを経て実現に至ったのだろうか。