暮沢剛巳

暮沢剛巳

岡本太郎によってデザインされた大阪万博のシンボル、太陽の塔。今も万博記念公園に立ち、存在感を放つ。

(写真:Ilya D. Gridnev / shutterstock

反時代的なものこそが、
世代を超えて生き延びる

岡本太郎の思考からデザインの可能性を読み解く論考第3弾。今回はいよいよ「太陽の塔」に織り込まれた思想を分析する。

Updated by Takemi Kuresawa on March, 9, 2022, 8:50 am JST

美術としての自己主張と、デザインとしての回答

さて、本稿の最初で、「太陽の塔」をデザインという観点から考えたいと書いたが、これは非常に難しく、また非常に易しい課題であると言わねばなるまい。

オビ号
佐藤秀明氏の父が撮影したソ連の「オビ号」。撮影者は南極観測船の「宗谷」に乗船していた。風やアイスパックの影響で動けなくなった「宗谷」を「オビ号」が救出にきたシーン。

非常に難しいというのは、そもそも「太陽の塔」をデザインとみなすことが難しいことに起因する。「太陽の塔」が冒頭で述べたような経緯で成立したのであれば、度重なる折衝の産物とはいえ、クライアントである国やプロデューサーである丹下の意向に逆らい、塔を建てたいというエゴを貫き通した岡本の姿勢は、明らかに内発的な表現欲を優先する美術家のものであって、デザイナーの権限を大きく逸脱していたと言わざるを得ないからだ。

一方で、非常に易しいというのは、にもかかわらず、「太陽の塔」が見事に問題解決を成し遂げていたことに起因する。先に述べた通り、会場のお祭り広場は地下、地上、空中の三層からなっており、サーキュレーションの都合上この三層を結ぶエレベーターが必須であったが、「太陽の塔」はまさにその目的のために建てられた塔であった。岡本がその目的に極めて自覚的であったことは、以下の一節からも明らかである。

その意味で、テーマ展示の一番根もとに、「過去・根源の世界」を置いて全体を支える構造を考えたのだ。地上・現在の世界、空中、大屋根のなかに作られる未来の世界と3つの層がそれぞれ独自に完結していながら、また一体となって輪を描く。テーマ館のユニークな空間構成だ(「祭り」)。

そしてこの地下・地上、空中の三層を縦軸で貫き一体化した「太陽の塔」は、大阪万博が掲げたテーマと「人類の進歩と調和」に対する岡本の回答ともなっていた。岡本は進歩と調和を「どちらも美しい言葉だ」と認める一方で、「われわれの進歩のあり方は本当にこれでよいのか」と、また「現代の世界において、調和とは何なのか」とどちらにも疑念を隠さず、試案の挙句に三層構造とすることを決断した。

つまり、地上――現在、地下――過去、空中――未來、三つの層が重なりあい、それぞれが独自に充ち足り、完結していながら、また渾然として一体である。それらは互いに響きあい、一つの環をなして、瞬間瞬間に、ぐるぐる廻っている。つまりマンダラ的宇宙であり、カルマである。そしてこの全体が、統一テーマ「人類の進歩と調和」を表現するのである(「万国博に賭けたもの」)。

当時反体制を標榜する美術家の多くは、大阪万博を体制側のイベントと批判し「反博」を標榜していた。前衛芸術家を自認していた岡本が当初参加を渋っていたのも同じ理由によるものだろう。だが結果的に参加することになった岡本は、「太陽の塔」によって「人類の調和と進歩」というテーマを視覚化・空間化してみせた。強烈な自己主張を秘めた点では美術であり、またクライアントへの回答という点ではデザインでもあるこの両義的な作品は、万博から半世紀経過した現在も、人々の好奇心を刺激して倦むところがない。

輝かしい未来のイメージは過去の遺物へ。そのとき何が残るのか。

同じく本稿の冒頭で、私は「太陽の塔」が大阪万博のシンボルであると書いた。その圧倒的な知名度や、開幕から半世紀が経過し、ほとんどのパヴィリオンが解体されてしまった今もこの塔が会場に現存していることを踏まえれば、ほとんどの者はそのことを疑うまい。だが正確を期せば、それは事実ではない(というよりは、「なかった」と言うべきか)。岡本が万博の翌年に執筆したエッセイには「まったくエキスポ’70のシンボルそのものになってしまった」という一節があるが、この「なってしまった」という言い回しは、「太陽の塔」が、もともとは万博のシンボルタワーではなかった事実の裏返しなのである。実はこの話題については以前も書いたことがあるのだが、後述の指摘に接して再考したことも含めて、この機にあらためて触れておきたい。

大阪万博の会場地図を見ると、「お祭り広場」の真南の位置に、高さ130メートルと「太陽の塔」の倍近い高さの鉄塔が立っていたことがわかる。「エキスポタワー」という名のこの塔こそ、開催当時公式に認定されていた大阪万博のシンボルタワーである。だが「エキスポタワー」は既に取り壊されて跡形もなく、公式のシンボルタワーであったことを知る者もかなりの高齢者に限られるだろう。シンボルタワーの座はとっくの昔に交代していたのだ。

「エキスポタワー」は、メタボリズムという国際的なデザイン運動の旗手であった菊竹清訓が設計した、当時の未来都市のイメージを体現した塔であった。だが万博終了後そのイメージは急速に色あせ、永久保存の予定もいつしか反故にされ、2003年には解体されてしまった。輝かしい未来のイメージは、時代の流れとともにいつしか過去の遺物と化してしまったのである。メタボリズムもまた「――主義」であり、特定の時代の動向として固定される宿命を免れることはできなかったということだろう。

それに対して、「太陽の塔」の呪術的、縄文的なデザインは開催当時多くの美術関係者に不評であったが、安易に成長神話に迎合しない姿勢が支持されたのか、万博終了後も人気を博した結果、当初の取り壊し予定が撤回され、1975年には施設処理委員会が永久保存することを決定し、21世紀の現在にまで至っている。時代の先端から脱落した「エキスポタワー」とは対照的に、「太陽の塔」は反時代的であったがゆえに、世代を超えて生き延びることが出来たとでも言えばいいのだろうか。

堺屋太一によると、岡本は「エキスポタワー」の建設計画を知りながら自らも塔を建てることを強硬に主張し、「自分の『太陽の塔』と菊竹氏のタワー、どちらが真のシンボルタワーかは、大衆の審査に委ねるべきだ。自分には自信がある」と力説したという(『史上最大の行事 万国博覧会』)。岡本のこの発言を裏付ける記録や資料は一切存在しないので字義通りには受け取れないのだが、通産省の官僚時代に万博の仕掛人として活躍し、多くの舞台裏を目撃してきた堺屋の指摘にかなりの信ぴょう性があることもまた事実である。いずれにせよ確かなのは、万博から半世紀たち、岡本をはじめとする多くの関係者が他界した現在、シンボルタワーとして記憶されているのは「太陽の塔」の方だということである。ここでの文脈に即して言えば、それは「太陽の塔」の方がより適切な問題解決を導いたということなのかもしれない。

参考文献
岡本太郎の宇宙 対極と爆発』岡本太郎(ちくま学芸文庫 2011年)
史上最大の行事 万国博覧会』堺屋太一(光文社新書 2018年)
イメージとシンボル』ミルチャ・エリアーデ 前田耕作訳(せりか書房 1971年)
佐々木秀憲(2011)「岡本太郎におけるミルチャ・エリアーデの影響」『美学』62巻2号 p85-96