仲俣暁生

仲俣暁生

1972年ごろ、ギリシャにて撮影。生活のあらゆる面でロバの力は欠かせない。

(写真:佐藤秀明

過去という「意味」を踏まえなければ、未来は訪れない

知性の人・橋本治の思索はあらゆるジャンルにおいて未来のヒントを与えてくれる。長年にわたり橋本治の書物を読み続けてきた文筆家の仲俣暁生氏が、作品や論考からその史跡をたどり新たな知へと結びつけていく企画、第3弾。

Updated by Akio Nakamata on March, 15, 2022, 8:50 am JST

ロシア連邦がウクライナに軍事侵攻した年として記憶されるであろう2022年は、ソヴィエト社会主義共和国連邦が誕生して100年という節目の年でもあった。ソヴィエト連邦ができた1920年代は第一次世界大戦後のモダニズムの時代で、世界の多くの国で都市文化・大衆文化が発展していく。アメリカではこの時代を「ジャズ・エイジ」と呼ぶことはよく知られているし、日本でも1923年に起きた関東大震災からの復興をきっかけに、現在にいたる多くの都市大衆文化の原型ができた。

江戸の町人はなぜ「革命」を起こせなかったのか

ところでここで思うのは、1920年代に「大衆」として見いだされる以前、普通の人々はどのように位置付けられていたのかということだ。都市大衆の時代である1920年代に、男性だけに限られてはいたし、悪名高い治安維持法と抱き合わせでもあったが、日本ではようやく普通選挙が実現する。

もちろん政治参加への道は選挙だけではない。一揆や暴動というかたちで不満を爆発させることもあれば、「革命」が成功して政権が変わることもある。100年前に成立し、70年ほど続いたソヴィエト連邦もそんな「革命」が生み出した国家の一つだった。でもそのソヴィエト連邦が崩壊した後にできた現在のロシア連邦で、普通の人々が政治的に十分な権利を行使できているとは思えない。なにしろ対外的に軍事行動を繰り返す独裁政権が20年も続いているのだ。

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江ノ島の古い灯台。1980年ごろ撮影。

こんなことを考えながら、橋本治が1989年に刊行した『江戸にフランス革命を!』(青土社)を読み返していた。この本は橋本の没後に装丁をあらためて復刊されているので、いまでも手に入れやすい。でも、歌舞伎や浄瑠璃、浮世絵といった「江戸の大衆文化」とでも呼ぶべきものを論じた文章を集めた同書は、決して「わかりやすい」本ではない。

江戸時代の大衆は、「町人」と呼ばれる人たちだ。しかしフランスで18世紀の終わりに大衆(市民)が革命を起こしたのに対し、江戸の大衆(町人)が革命を起こすことはなかった。19世紀後半になってようやく起きる明治維新は、市民を主体とする「市民革命」などではなく、支配層のなかで起きた軍事クーデターに過ぎなかった。橋本は江戸の大衆文化のディテールを丹念に解きほぐしつつ、江戸の町人はなぜ自らの力で「革命」を起こせなかったのかという、この本の真の主題に迫っていく。

収められている文章のほとんどは1980年代に書かれたものだ。この時代の日本はとても豊かだった、とよく言われる。しかし世界中で大きな政治的な変革が起きた1989年に、日本では昭和天皇の死にともなう改元があったのみで、この時代の大衆(市民)が政治を通して社会を変えることはなかった。そのことについて橋本は別途、『’89』(マドラ出版、のちに河出文庫)という大著を書いている。『江戸にフランス革命を!』はこれとセットで読むべき本である。「過去」を論じつつ、もちろん橋本は「現代」について語っていた。

江戸の「様式=哲学」

1980年代の東京は再開発ブームで、土地バブルの時代でもあった。その熱狂のなかで、今日でもしばしば参照される都市論、江戸=東京論の本が多く書かれた。当時はポストモダニズム思想が流行した時代でもあり、都市論や東京論の多くもポストモダンな視点で語られ、あるいは参照された(「東京は中心が空虚な都市である」としたロラン・バルトの『表徴の帝国』などが代表的)。そうしたなかで橋本治は、ポストモダン以前の「近代」が受け継ぐことのなかった近世、つまり江戸の「様式」を本書であらゆる角度から論じた。

ポストモダンとは、字義通りにとれば「近代の後」である。そして日本の近代とは、西洋に追いつき追い越すことを唯一の目標とした時代だった。1980年代に日本はそうした意味での「近代」を達成し、そして目標を見失った。近代は乗り越えられ、前近代とともに否定された。でも、そのあとにいったい何をしたらよいのか、当時の日本人は誰もわからなかった。こうした時代状況のもとで書かれたこの本の冒頭には、江戸歌舞伎の傑作『摂州合邦辻』を論じる次のような文章が置かれている。 

「勿論 ”過去” とは意味である。人は、意味のないものを求めたりしない。意味のないものに憧れたりはしないし、知りたがったりもしない。人はただ、己にとって意味のあるものを探ろうとするだけだ。
そして、過去とは ”制度” である。人を縛り付けようとする、呪縛にも等しい制度である。それならばこそ、人は過去という時間を文字通り ”過去のもの” として来たのだ。しかし、今や再び、もう一度 ”過去” である。人はもう一度、”過去” という名の制度を身に纏うのだ。そこから解き放たれる為に」(「呪縛の意匠――過去へ行く為に」)

ここで ”過去”、”制度” と呼ばれているのは、さしあたっては歌舞伎における着物という衣装/意匠のことだ。江戸時代の大衆娯楽を代表する歌舞伎という芸能のなかで、役者が身に纏う着物のもつ意味はきわめて大きい。しかし近代の「市民」は歌舞伎という娯楽を捨て、そこに込められていた意味までも捨ててしまった、と橋本は論じた。

『摂州合邦辻』の主人公、玉手御前は義理の息子・俊徳丸に毒を飲ませ、容貌を損なう不治の病にした上で邪な恋を仕掛けた。なぜ彼女はそんな回りくどいことをしたのか。江戸の町人はこの物語に込められた複雑な心理を、衣装や小道具、舞台装置も含め、大衆娯楽として楽しんだ。江戸歌舞伎がもつ「時代(過去)」と「世話(現代)」という二重構造=様式は、この時代の大衆文化がもちえた可能性と、その限界をともに示していた。

でも現代の私たちには、この物語に込められた複雑な心理を読み解くことさえ難しくなっている。橋本はそのように考え、停滞した当時の「現在」から「解き放たれる」ために、この文章を『江戸にフランス革命を!』の冒頭に置いたのだった。前回までに論じた『浮上せよと活字は言う』のなかでも、橋本治はこう書いていた。

「近代の登場とは、前近代の切り捨てである。それがなければ近代は達成されない――近代とは、そういう矛盾を含んだ時代である。前近代を切り捨てる形で近代というものは登場し、そしてその近代は、ある達成を見る。近代の先にある “現代” は、その達成を踏まえなければならない。切り捨てることによって達成されたもののその先は、切り捨てずに「踏まえる」という逆の方法を必要とする。そしてこの「踏まえる」という方法は、近代が切り捨ててしまった「前近代」の方法だった」(「出版を論ず」)

過去を「切り捨てる」だけでなく、もう一度身に纏い、踏まえた上で捨て去ること。橋本治が多くの著作のなかで繰り返し論じたのはそのことだった。

東京にも「フランス革命」を!

江戸の大衆文化を論じたこの本のなかで、「フランス革命」という言葉が出てくるのは、じつは次の一箇所だけである。

「制度の中にいるものが、その制度を成り立たせている権力に対し文句を言って、そしてその結果権力を倒してしまったら、一体どうなるのか? 文句を言った自分達の存在が危うくなるという、ただそれだけの話である。危うくなった自分を立て直す為には、もう一遍その自分をしっかりと立て直してくれる ”制度” というものが必要で、その為には再び ”権力者” というものが必要でという、悪循環が続くばかりだ。そのくどいばかりの連続は、フランス革命以後の ”混乱” というものを見れば一目瞭然である。
だからというか、つまりというか――要するに、権力によって成立させられた制度の中にいる人間達は、結局のところその制度が壊れないような、安全な文句ばっかり言っている。自己嫌悪で口がきけなくなるまで――。ここら辺は、親の悪口ばっかり言っている子供、夫の悪口ばっかり言っている専業主婦と同じである」(「その後の江戸――または、石川淳のいる制度」)

ロシアとウクライナの間で戦争が起きているいま、このくだりを引用することは微妙な意味をもつかもしれない。自国への軍事侵攻に抵抗するウクライナの人々は、この種の批判にはあたらないだろう。2014年にこの国で起きたことが真の「市民革命」ならば、その成果を守るために「大衆=市民」がみずから戦うのは当然だからだ。

むしろ不思議なのは、20世紀の初めにすでに「革命」を成し遂げたはずのロシアや中国が、100年後の現在も強権国家のままであることだ。これらの国の「大衆」にとって、過去の「革命」とは何だったのか。過去を「切り捨てる」だけの「革命」は結局のところ過去を延命させ、あるいは復活させてしまうということの実例ではないか。

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横断歩道のボーダーに導かれ、人が道を渡っていく。横浜にて2019年ごろ撮影。

ながらく「改革」の必要が叫ばれながらも、じりじりと衰退を続けるばかりの日本の大衆、つまり私たちにも橋本治の30年前のこの言葉は鋭く突き刺さる。いずれにしても私たちはあまりにも、自分達の過去を知らない。過去を「纏う」ことも「踏まえる」ことも忘れたままの私たちは、そのことによって自分たちにふさわしい哲学=様式をも失った。橋本治が平成の初めに出した『江戸にフランス革命を!』は、そんなことをいまなお私たちに突きつける本なのである。

今回は目前で急速に展開する「現在」の状況に目を奪われ、「過去」についての同書の論点を十分に展開できなかった。次回はさらにディテールに踏み込むことにしよう。

参考文献
江戸にフランス革命を!』橋本治(青土社 2019年)
’89』橋本治(河出書房新社 1994年)
表徴の帝国』ロラン・バルト 著 、宗左近 訳(筑摩書房 1996年)
増補 浮上せよと活字は言う』橋本治(平凡社ライブラリー 2002年) 

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『江戸にフランス革命を!』橋本治(青土社 1990年)