東京にも「フランス革命」を!
江戸の大衆文化を論じたこの本のなかで、「フランス革命」という言葉が出てくるのは、じつは次の一箇所だけである。
「制度の中にいるものが、その制度を成り立たせている権力に対し文句を言って、そしてその結果権力を倒してしまったら、一体どうなるのか? 文句を言った自分達の存在が危うくなるという、ただそれだけの話である。危うくなった自分を立て直す為には、もう一遍その自分をしっかりと立て直してくれる ”制度” というものが必要で、その為には再び ”権力者” というものが必要でという、悪循環が続くばかりだ。そのくどいばかりの連続は、フランス革命以後の ”混乱” というものを見れば一目瞭然である。
だからというか、つまりというか――要するに、権力によって成立させられた制度の中にいる人間達は、結局のところその制度が壊れないような、安全な文句ばっかり言っている。自己嫌悪で口がきけなくなるまで――。ここら辺は、親の悪口ばっかり言っている子供、夫の悪口ばっかり言っている専業主婦と同じである」(「その後の江戸――または、石川淳のいる制度」)
ロシアとウクライ ナの間で戦争が起きているいま、このくだりを引用することは微妙な意味をもつかもしれない。自国への軍事侵攻に抵抗するウクライナの人々は、この種の批判にはあたらないだろう。2014年にこの国で起きたことが真の「市民革命」ならば、その成果を守るために「大衆=市民」がみずから戦うのは当然だからだ。
むしろ不思議なのは、20世紀の初めにすでに「革命」を成し遂げたはずのロシアや中国が、100年後の現在も強権国家のままであることだ。これらの国の「大衆」にとって、過去の「革命」とは何だったのか。過去を「切り捨てる」だけの「革命」は結局のところ過去を延命させ、あるいは復活させてしまうということの実例ではないか。
ながらく「改革」の必要が叫ばれながらも、じりじりと衰退を続けるばかりの日本の大衆、つまり私たちにも橋本治の30年前のこの言葉は鋭く突き刺さる。いずれにしても私たちはあまりにも、自分達の過去を知らない。過去を「纏う」ことも「踏まえる」ことも忘れたままの私たちは、そのことによって自分たちにふさわしい哲学=様式をも失った。橋本治が平成の初めに出した『江戸にフランス革命を!』は、そんなことをいまなお私たちに突きつける本なのである。
今回は目前で急速に展開する「現在」の状況に目を奪われ、「過去」についての同書の論点を十分に展開できなかった。次回はさらにディテールに踏み込むことにしよう。
参考文献
『江戸にフランス革命を!』橋本治(青土社 2019年)
『’89』橋本治(河出書房新社 1994年)
『表徴の帝国』ロラン・バルト 著 、宗左近 訳(筑摩書房 1996年)
『増補 浮上せよと活字は言う』橋本治(平凡社ライブラリー 2002年)