小二田誠二

小二田誠二

子どもにギターを聞かせる母親。昼下がり、ドイツの公園にて。1980年ごろ撮影。

(写真:佐藤秀明

「真実」は「事実」だけでは伝わらない

フェイクニュースは情報化社会に混乱をもたらす。だから人々がファクトすなわち事実だけを求めるのは当然の理屈だ。しかしながら、果たして事実だけが真実を伝えるために役に立つと言えるのだろうか。事実とは到底思えない、神話や伝説は信じる価値のないものとして一蹴できるのか。地域文学文化の専門家・小二田誠二氏が情報としての文学の価値を再考する。

Updated by Seiji Konita on April, 1, 2022, 8:50 am JST

情報の記録媒体としての記念碑

大学入学共通テストに「情報」を入れるという方針が示されて議論を呼んでいる。私自身、プログラミングの基礎も、コンピューターの中で何が起こっているのかも知らないけれど、日常的にキーボードを叩き、液晶モニターに映る像を見て暮らしている。それは、文法や語彙の「正しい」知識がなくても、生きながら身につけてきた言語なら生活に困らない程度には使える、というのと似ているのだろう。生きていくには困らないけれど、仕組みをしっかり学んでおいた方がよりよく生きられる。それは解る。なんとなく。で、さて、なんとなくは解るのだけれど、問題は、私たちが本当に学んでおくべき「情報」とは何だろうか、それは、どんな未来を用意しているのだろうか、という大事な部分がぼんやりしているということだ。

私は静岡大学で地域文学文化を教えている。先日、授業のために改めて静岡大学周辺を歩いてみて、この地域の近代化に貢献した人物たちの顕彰碑にまじって、大谷川放水路に関する立派な記念碑がかなりの数存在することを知った。有度丘陵(土地勘の無い人たちには「日本平のある山」と言った方が解りやすいかもしれない)西麓にある大学の更に西側を南北に流れる大谷川放水路は、74年の七夕豪雨水害を経て、静岡市街地北側を東進して清水港に流れ込む巴川の水を逃がすために造られたもので、河口近くにはその歴史を学べる施設もあるので、授業でも見学を促している。七夕豪雨と、それに伴う河川改修は、静岡・清水に長く暮らして来た人たちにとっては、石に刻んで後世に伝えるべき大きな歴史的事件だった。普段は気にされることもなくただ存在しているだけのこうした記念物は、そこにあることによって、大事な時に私たちに歴史を示してくれる。実際、大震災の時には、殆ど忘れられていた各地の自然災害伝承碑が見直され、現在では全国的なデータベースも公開されているし、女川の「いのちの石碑」プロジェクトのように、新たに作られる例もある。

古来、人は、永続的に伝える価値のある情報を石に刻んできた。今では大げさに見えるし、実際は忘れられ、撤去・移動される例も数多くあるけれど、それでも、今も人は石に刻もうとする。事実、数千年前に刻まれた文字が現存しているのだから、石という記憶媒体の強靱さは否定しようがない。莫迦げた比喩だが、この先デジタル技術がどんなに進化しようと、石を超える耐用年数の記憶媒体が現れるとは考えにくい。或いは、長期保存が可能になったとして、1000年後に、そのフォーマットとの互換性は維持されるだろうか。フィルムや音盤などのアナログの記録は、似たような文明があれば、直感的に再生可能である点で、未来に開かれていることは、認めておく必要がある。