小二田誠二

小二田誠二

子どもにギターを聞かせる母親。昼下がり、ドイツの公園にて。1980年ごろ撮影。

(写真:佐藤秀明

「真実」は「事実」だけでは伝わらない

フェイクニュースは情報化社会に混乱をもたらす。だから人々がファクトすなわち事実だけを求めるのは当然の理屈だ。しかしながら、果たして事実だけが真実を伝えるために役に立つと言えるのだろうか。事実とは到底思えない、神話や伝説は信じる価値のないものとして一蹴できるのか。地域文学文化の専門家・小二田誠二氏が情報としての文学の価値を再考する。

Updated by Seiji Konita on April, 1, 2022, 8:50 am JST

記録に関する技術が飛躍的に発展したその裏で

動物に言語、在りや無しや、という話はさておき、人類はある段階から、同時的なやりとりの他に、未来に向かって何かを伝えようとしたらしい。記録するという行為は、最初は自分のための備忘だったかも知れないけれど、それはそれで、現在の先に未来という物の存在が意識されていたはずだ。私たちの先祖は、忘れることを怖れ、忘れてはならないものを身体の外側に残そうとした。

シャーヒ・ズィンダ廟群
「青の都」と名高いウズベキスタン・サマルカンドに建つシャーヒ・ズィンダ廟群。鮮やかなブルーが目を奪う。

石や粘土板に彫りつける図像を発明し、やがてそれらは意味や音と個別に対応可能な文字になった。そして、それを書き付けるために紙や筆や墨のような媒体を発明し、改善していった。こうした絵や文字の類が発明されるよりも前に、音声をその場限りのコミュニケーションから伝承の道具として洗練させた歌や語りも生まれ、進化し続けたに違いない。音声言語はその場限りで消え去るとはいえ、個別のコミュニケーションだけでなく、群衆に向かってまとめて発信することが出来る。文字言語も読む能力があれば複数の人に等質の情報を伝えられるが、もっと正確に、もっと多くの人に伝えるためには複製技術が欠かせない。印鑑のような転写技術は古くから存在したが、それらはやがて印刷という革新的な情報技術となった。音声を拡大する技術が発明され、録音する、画像や映像を焼き付ける技術も生まれ、それらを遠く離れた場所でもやりとり出来る通信技術がうまれた。そしてそれらは、「デジタル化」することになった。近年では、自動翻訳が当たり前に使われるようになっている。

こうして、全ての情報は、正確に、劣化しない形で記録され、時と場所を選ばず間違いなく再生可能な状態に近づきつつある。上書き保存による古いデータの消失や誤削除といった問題も、大容量の保存が可能な媒体が続々生まれてくるなかで、いずれ解決するのだろう。耐久性や互換性の問題も、先端の技術者たちが考えていないはずはない。大容量の記憶媒体、検索・処理能力の向上は、必要なときに必要な知識を得ることを可能にする。全番組録画を可能にしたチューナーのように、とにかく全部記録しておけば心配はない。デジタルに限らず、情報技術の発展は人類の生活を豊かにしてきた。デジタル技術による変革は、更に人々を幸福にしてくれる、だろうか。

ここまで書いてきたのは、広く言えば「技術」に関することだ。それは正しく学ぶことで身につけられるだろう。次に問題になるのは「倫理」かもしれない。優れた科学技術は、人を生かすことも殺すことも可能であり、倫理的に正しく使われなければならない。では、「倫理的に正しい」とはどういうことか。道徳や倫理に絶対普遍な「正しさ」が存在するのかどうか。そして、仮にその判別が可能だったとして、例えば、それらを「歴史」として残すときに、一方を取り、一方を削除すべきなのかどうか。データ容量が無制限なら全部保存できるかもしれない。しかし、それをどう「活用」するのか、話は循環してしまう。

技術の話は大前提、その上で、倫理を無視することは出来ない。それらの重要性を踏まえた上で、こうした議論から排除されがちな要素として、「文学」という領域をもう一度考え直してみる必要があるのではないか、と、水を引いてみる。