小二田誠二

小二田誠二

子どもにギターを聞かせる母親。昼下がり、ドイツの公園にて。1980年ごろ撮影。

(写真:佐藤秀明

「真実」は「事実」だけでは伝わらない

フェイクニュースは情報化社会に混乱をもたらす。だから人々がファクトすなわち事実だけを求めるのは当然の理屈だ。しかしながら、果たして事実だけが真実を伝えるために役に立つと言えるのだろうか。事実とは到底思えない、神話や伝説は信じる価値のないものとして一蹴できるのか。地域文学文化の専門家・小二田誠二氏が情報としての文学の価値を再考する。

Updated by Seiji Konita on April, 1, 2022, 8:50 am JST

そもそも「正しい情報」は本当に役に立っているのか

更に言えば、そうした語りの生命力そのものも、あらためて認識する必要がある。「正しい」情報を蓄積し、検索しやすい形で提供したところで、それらの「情報」は未来に向かって人々の記憶のなかに生き続ける力を持っているだろうか。心ある人たちが、技術の獲得、リテラシーや倫理観の向上に努めたところで、フェイクや差別、流言蜚語の類が絶滅することは、多分あり得ない。むしろ、善意によって誤解が拡がることもある。それが共同体の語りの暴力的とも言える強靱さでもある。その力は共同体の結束力そのものであるかも知れない。そのように存在してしまっている様々な語りとどう向き合うのか、或いは、未来に向けてどう蓄積し、どう活かすのかを考える必要があるだろう。

ナイロビのブックスタンド
ナイロビのブックスタンド。道端でイギリスやアメリカの雑誌を売っている。

我々の後裔たちが再び大きな災禍に遭遇する前に、あるいはまさに直面する時、彼等を救う情報はどういう形をしているだろうか、という問題は、単純にメディアやアーカイブの整備、或いはそれらの「質」的向上によって解決されるわけではない。インターネットやSNSの発達は、表現の多様性を生じさせる一方で、新たに排他的な語りを共有する大小様々な閉じた社会を生み出しているように見える。暴力的、排他的な言説の発生を食い止め、その集団に属さない人々の命まで守るための語りは、どうしたら可能なんだろうか。

この問題を考えるためには、「実用的」で「正しい」言説にこだわることなく、上記のような「虚構」としか評価しようのない言説に、そして更に、実用言語とは別の表現様式に思考を広げる必要がある。

実用的な言語と異なり、小説や詩歌、演劇の類は、それぞれの文化の文脈に依拠する表現も多く、多義的で「正確に」解釈することは難しい。「文学」と呼ばれるこれらの表現は、「我々」にとって慰安であり、娯楽でありつつ、一方で、その外側に、簡単には理解出来ない他者の存在を確実に示してくれる「情報」でもある。読むこと、歌うこと、演じることは、そうした他者の経験や思考を擬似的に体験する回路を提供するかも知れない。翻訳技術の向上や、正確で実用的な表現と解釈を重視することは、そうした多様性そのものを排除することに繋がるだろう。

90年代に大学の共通科目として導入された「情報処理入門」は、今なら小中学生でも出来そうなPCのオンオフから、ワードプロセッサや表計算ソフトの使い方程度の内容が中心で、それさえ担当出来る教員は限られていたように記憶している。今回高等学校で必修化された「情報」は、それと比べれば雲泥の差だ。しかし、「情報」は、コンピューターやインターネットによってもたらされた新しいものではない。何度も言うように、最先端の技術を学ぶことは重要だけれど、人類が、かつてどのように「情報」を処理してきたのか、その時々、言葉はどう変容したのか、逆に、変わらなかったものがあるとすれば、それはなにか、を考えることは、今はまだ存在しない新しい情報技術を考えるヒントになるだろう。

たとえば、何故、古文と現代文があるのか、何故、地域によって異なる言語が存在し、何故消滅しようとしているのかを考えたとき、プログラム言語のように一義的で誤解の生じない「実用的」な言語しか存在しない世界を、明るい未来として予想して良いのかどうか。それらの考察を「文学」と呼ぶことが適切なのかどうかはさておき、解り合えない他者の存在をそれとしてそのまま認めつつ、可能な共存の形を模索し続けたい。
親しくなりたい特別な誰かに好意を伝えるとき、全ての人が、同じ表現をし、同じように受け取る世界に、私は住みたくない。