「史実」ではない文学に記録としての価値はあるか
例えば神話や昔話は「史実」ではない。しかし、それらは長い年月語り継がれてきた。現代にあっても、大きな災害の時には明確な「嘘」「ネタ」に混じって、当事者の語る「怪談」としか言いようのない非科学的な言説が多数紹介されている。これらを話す当事者は、科学的判断が出来ない人、或いは天性の嘘つきなのだろうか。神話や昔話、怪談、あるいは流言蜚語や都市伝説に至るまで、「事実」と認定出来ない語りは情報技術が進化しても、それぞれのメディアの中で消えることなく生産され、継承され続ける。その生命力は何なのだろう。
私は、「実録」と呼ばれる、主に江戸時代に写本で残された事件、例えば由井正雪や天一坊などを扱う記録読みものを中心に研究してきた。それらの多くは書写の過程で書き換えられ、もとの話とは随分変わってしまうので歴史書としては使えず、かといって洗練された技巧がこらされるわけでも無いので、文学研究からも余りかえりみられることがなかった。それを研究したのは、実際の事件がどのような物で、どこが「虚構」であり、娯楽的な味付けを誰がどのように加えていったのか、様々な娯楽文芸とどのような影響関係にあったか、等を明らかにするため、ではない。その、殆ど無名の伝承者たちによって書き換えられ続けた「歴史記述」の背後にある、伝え、残していく普遍的な何かを見てみたかったのだった。それは、史実/虚構でも、勝者/敗者の歴史とかいう対立軸でもなく、ある共同体があり続けるために不可欠な構造そのものだろうと考えている。
物語がもつ普遍的な構造を抽出する力
少しだけ具体的な話をしよう。将軍吉宗の御落胤を名乗って江戸に乗り込んだ天一坊は、報告を受けた関東郡代に裁かれて死罪になった。この事件はやがて町奉行大岡越前が裁いたことになり、長編化していく。その過程で、天一坊自身よりも、弁舌に長けたブレインとして登場する山内伊賀亮と言う架空の人物が重みを増し、大岡との対決「網代問答」が山場になった。幕府側にも、大岡の意見を聞き入れない頑迷な上司としての松平伊豆守や、更に高所から判断を下す水戸綱條などを配し、大がかりな娯楽読みものに変貌する。この過程で生まれてく る設定は勿論史実ではなく、誰かが思いついた「創作」に違いない。しかしそれらは、江戸読本や現代の娯楽小説とは異なる性質を持っている。というのは、たとえ思いつきが個人に発しているとしても、受容する共同体がその話を排除すれば伝承は途絶えてしまうからだ。逆に言えば、このようにして成長変化した話は、荒唐無稽であっても、本質の部分でその社会の願望、あり得べき事実の姿を映している。綱條・伊豆守・大岡の関係は、[正義の最高権力者・権力を狙う悪徳中間権力者・困惑する弱者]、というように図式化すれば、学園や企業、病院、官僚機構等を扱った多くの娯楽ドラマに通底する構造であることに気づくだろう。
江戸時代、大量に生産された敵討ち物の殆どは似たような型を持っていたが、明治維新を経て通用しなくなった。しかし、敵討ち物が担っていた成長物語の型そのものは、別の材料に寄生して今も生き延びている。このように、様々な実録や大衆娯楽における変化や安定化の位相を分析することで、神話や昔話の型にも通じる普遍的な構造を抽出できるだろう。
こうした考察は、過去を考える「歴史」の問題に留まる話ではなく、現在進行している事柄についての様々な言説を理解するためのサンプルとして、とても重要なヒントを提供してくれる。