島薗進

島薗進

新橋から有楽町へ続く地下道。2019年ごろ撮影。

(写真:佐藤秀明

統一教会とオウム真理教を対比する【前編】

2022年7月8日、元首相が殺害されるという衝撃的な出来事があった。世界を震撼させたこの事件の背景には、犯人が新宗教によって家庭を崩壊させられた点が指摘されている。犯人によって名前を上げられている「統一教会」とはどのような組織なのか。また、かつて日本で大規模な事件を引き起こした新宗教との類似点はあるのか。宗教学者の島薗進氏が解説する。

Updated by Susumu Shimazono on July, 20, 2022, 5:30 am JST

宗教の特徴には、現世否定的な教えとそれを反映した信仰活動がある

2022年7月8日、参議院選挙で遊説中の安倍元首相が銃撃により殺害された。この許しがたい犯行の背後に、宗教教団への恨みがあることが露わになってきている。山上徹也容疑者の母親が世界平和統一家庭連合(統一教会)に所属し、多額の献金を行ったことで生活が破壊されたことへの報復の意図があったという。このような殺害を意図した犯行は決して許されることではない。

それにしても、宗教教団がなぜそのような恨みの対象となったのか、また、なぜそれが安倍元首相という政治家を対象とする犯行となったのか、という問いが生じる。このような事件が2度と起こってはならないという思いは、自ずから犯行動機の理解へと向かう。
そこで、新宗教を長年研究しこれまで得てきた知見から、統一教会という宗教教団の特徴を考察し、犯行動機を解明していくための一助にしたいと考える。

貧しかった頃のニューヨーク
貧しかった頃のニューヨーク。1969年撮影。

世界平和統一家庭連合は長期にわたって世界基督教統一神霊協会、略称「統一教会」と名乗ってきた教団である。韓国では1994年、日本では2015年から世界平和統一家庭連合を名乗るようになっているが、1960年代以来、世界基督教統一神霊協会(統一教会)とよばれてきた教団なので、歴史的に理解するには統一教会とよんだ方が理解されやすい。そこで、この稿では、主に統一教会という呼び名を用いることにする。

新宗教の歴史の上で、1970年ごろから新しい傾向が見えるようになってきたことは、拙著『新宗教を問う─近代日本人と救いの信仰』(筑摩新書 2020年)や『ポストモダンの新宗教─現代日本の精神状況の底流』(法蔵館 2021年)で述べたところである。70年代以降に発展期を迎える新宗教諸教団を見渡したとき、そのなかに見られるいくつかの新しい特徴のなかに、現世否定的な教えとそれを反映した信仰活動や信仰生活の様態がある。

1960年代までに広まった新宗教と1970年以降に発展した新新宗教の大きな違い

新宗教の歴史は黒住教が発生した19世紀の初めごろに遡ると理解されている(井上順孝他編『新宗教事典』弘文堂 1990年)。そして1960年代までに発展期を迎える大多数の教団で現世肯定的、また現世志向的な考え方や行動様式が共有されていると捉えられている。この世で幸福に暮らすことが救いに通じると信じられ、家族や職場などこの世のなかで信仰を深め、信仰を実践することが求められた。

これに対して、1970年代以降に発展期を迎えた新宗教教団(「新新宗教」とよばれることもある)のいくつかでは、現世否定的、かつ現世離脱的な傾向が見られる。現世における悪の実在を強く押し出し、現世での幸福や自然的欲望の充足にマイナスの評価を与える悲観的な現状認識が見られる。典型的な例が統一教会とオウム真理教である。『ポストモダンの新宗教』に引かれている例をここでも引く。統一教会では、人間の「堕落」、とくにその現れである「淫乱」や敵対関係(顕在的・潜在的暴力)を見つめることが信仰の出発点となっている。

人間は堕落することによって神の宮となることができず、サタンが住む家となり、サタンと一体化したために、神性を帯びることができず堕落性を帯びるようになった。このように堕落性を持った人間達が悪の子女を繁殖して、悪の家庭と悪の社会、そして悪の世界を造ったのであるが、これが即ち、堕落人間達が今まで住んできた地上地獄だったのである。地獄の人間達は、神との縦的な関係が切れてしまったので、人間と人間との横的につながるものをつくることができず、従って、隣人の苦痛を自分のものとすることができないために、ついには、隣人を害するような行為をほしいままに行うようになってしまったのである。人間は地上地獄に住んでいるので、肉身を脱ぎすてた後にも、そのまま天上地獄に行くようになる。このようにして、人間は地上・天上ともに神主権の世界をつくることができず、サタン主権の世界をつくるようになったのである。(『原理講論』第6版、1969年、136−7ページ)

この世の価値を超えていくことを訴えたオウム真理教

次に、オウム真理教の場合を見てみよう。「尊師」とよばれたオウム真理教の教祖、麻原彰晃(松本智津夫)は、この世(現世)の価値を超えていくことを強く訴えた。

(尊師)要するにね。今の価値観というのは、高学歴、それから一流企業、それからスタイルのいい女性と結婚して、で、アットホームで金を持って、財テクその他をやって。豊かになって死んでいくと。これが今の価値観だと思うんだよ。ところが、私が提唱する価値観というのは、そうじゃなくて、それは内側にあるんだよ。内側にどういうものがあるかというと、すべてを知り、この世が本当は苦であって、例えば金持ちになることも、スタイルのいい女性に執着することもすべてが苦しみであって、そうじゃないもう一つの道というのは、だれも壊すことのできない絶対的な境地であって、本当の意味での自分自身を理解できるんだということだよね。そういう価値観を提唱したいと。(『マハーヤーナ』38号 1991年1月)

オアフ島北海岸の波
オアフ島北海岸の海。冬には大波が次々と押し寄せる。

こうした教えによって、60年代、70年代の統一教会や80年代のオウム真理教は、若く、比較的学歴が高い層を引き寄せた。ここに日本の新宗教の新たな可能性を見る学者や文化人もいた。超越性が明確ではない日本の宗教のなかに、新たに鮮明に超越性を打ち出す宗教運動が登場したとする捉え方だ。

担い手についてもそれまでとは異なる特徴が見られた。20歳代、30歳代の男性を含めた人々が多く、それまでの現世肯定的な新宗教が中年以降の女性を主要な担い手をしたのと好対照である。そして、信仰活動も一般社会から切り離された内閉的な集団を作り、しばしば共同生活を行うことになった。統一教会では「献身」によって、オウム真理教では「出家」によって、家族やその他の世俗的な関係から隔離された生活を行うことが勧められた。『ポストモダンの新宗教』では、これを「隔離型」の「新新宗教」と捉えた(43−53ページ)。

一般社会の秩序が厳しく否定される「隔離型」の教団

以下、『ポストモダンの新宗教』から「隔離型」の教団についての叙述を引く。

「……隔離型の教団はきわめて強固な信仰共同体を作ろうとする。代表的な例として統一教会、エホバの証人、オウム真理教をあげることができる。これらの教団では、多くの信徒が世俗の職業生活や家庭生活を放棄したり、信徒以外の人たちとの関係を最小限に切りつめるなどして、世俗社会から隔離された人とだけの共同生活を送ることを好んだ。統一教会ではホームとよばれる宿舎、オウム真理教では道場に住み込んだ信徒たちは、かなり徹底した禁欲生活を送る。きわめて厳格な道徳規範が設定され、私有財団、家庭生活(あるいは男女の性愛的結合)、ときには特定の食べ物飲み物が制限される。多くの時間が行や奉仕作業や苛酷な布教活動に捧げられ、自由時間は限定されている。全生活が信仰体系によって統制されており、特定の聖典や教祖(指導者)の人格や教義用語が日常のあらゆる場面で想起される。一般社会の秩序は厳しく否定されており、そのなかで精神的に向上することは困難であり、可能だとしても重大な限界があると考えられている。」(50ページ)

「カルト教団」として批判されるものの多くは、この「隔離型」の教団である。このタイプの教団は部外者を敵として、あるいは良き配慮に値しない存在と見る傾向がないとはいえず、それが犯罪にまで及ぶことが少なくない理由の主要なものの一つであることは確かだろう。」(51ページ)

オウム真理教の「ワーク」には先例があった

ではこうした現世離脱的な信徒集団は、一般社会とどう関わるかというと、かつての仏教の出家やキリスト教の修道院などとは異なり、攻撃的に社会に関わり、強引な、あるいは過酷な仕方で布教をしたり財を獲得したりする活動を行う。これが、ある種の現代的な現世離脱教団の特徴である。新たな信者を獲得したり、寄付・献金をさせたり、高利益の商品販売等で財を獲得したり、教団の組織力の拡大のために、信徒を徹底的に働かせる。したがって、教団は一般社会から隔離されながらも、きわめて効率的に集団の力を拡大させる業務遂行組織のような様態をとる。

こうした教団の活動様態は、天理教や創価学会など明治期から戦後期までに急成長を遂げたそれまでの新宗教にもいくらかは見られたが、現世離脱する出家信徒を基軸に格段に高い割合でそれを展開したのは、70年代後半から80年代にかけての統一教会である。オウム真理教はこうした隔離型の、また内閉的な信徒組織を取り込んで効率的に運用しようとした。そうした活動をオウムは「ワーク」とよんだが、それは統一教会に先例があったものだ。
このような活動は現世離脱的な信仰実践が重視されることによって、かえって有効に機能するところがある。少なくとも一時期は、それによって信者獲得や献金や財の獲得において、法外な「成果」が得られることもある。

しかし、こうした活動形態は多くの被害者を生み、外部社会との間で激しい葛藤を起こしがちである。信仰によって正当化され、多くの新たな信者や財を獲得することをメンバーに強いたり、競わせるような攻撃的な活動は、巻き込まれた人の人間関係への破壊的影響や経済基盤の崩壊を招く可能性がある。
このような葛藤が生じた場合、それを反省して慎むようになるという可能性もある。だが、むしろそれに居直って、ますます葛藤を広げ深めるような形で信仰活動を続ける場合がある。その方が勢力の拡大に有利だという判断があってのことだ。統一教会の場合は多くの殺人を犯すには至っていないが、オウム真理教は次々と殺人を犯し、ついには多くの人々を巻き込むテロへと至った。ここはきわめて大きな違いである。

参考文献
新宗教を問う─近代日本人と救いの信仰』島薗進(筑摩新書 2020年)
ポストモダンの新宗教─現代日本の精神状況の底流』島薗進(法蔵館 2021年)
新宗教事典』井上順孝、中牧弘允、孝本貢、西山茂、対馬路人編(弘文堂 1990年)