仲俣暁生

仲俣暁生

朝の托鉢。ラオスの古都ルアンパバーンの名物風景だ。

(写真:佐藤秀明

”伝説”なしで「三島由紀夫」を語るには(後篇)

前回に引き続き、橋本治の著作から「三島由紀夫」を読み解いていく。橋本治を介してみると、三島由紀夫は私たちに何をもたらし、何を残さなかったのか。

Updated by Akio Nakamata on August, 30, 2022, 5:00 am JST

前回の記事は、橋本治の『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』の具体的内容に入る前に、この本の「あとがき」で橋本が強調している三島への自身の「無関心」の意味と、その背景にあった1969年の東大全共闘と三島由紀夫の間の「討論」の話をするところまでで終わってしまった。

あらためて『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』である。この本で中心的に論じられるのは、三島の遺作となった『豊饒の海』四部作だ。その理由はわかりやすい。この最終巻『天人五衰』を脱稿して編集者のもとに渡ったその日──1970年11月25日──に三島が自死したからだ。もちろんそれは計画的な死であり、執筆計画もそれにあわせて綿密に立てられていた。

なぜ、三島由紀夫はこのときに死ななければならなかったのか。あらゆる三島論がそうであるように、橋本の論もその問いをめぐって展開していく。

「日本で一番頭のいい作家」

橋本にとって三島由紀夫とは、「日本で一番頭のいい作家」だ。橋本だけではない。当時の日本社会はそのように三島を位置づけ、三島もそれに応じた。三島由紀夫の小説を「つまらない」と言う男は当時もいたが、そのように言ってしまえる人間は、「知的社会の一員になる資格を欠いた、ただのイナカモノなのである」。そして次のように橋本は続ける。

「三島由紀夫は本当に頭がよかった。つまりは、完璧なのである。三島由紀夫のスター性にヒビが入るような問題が生まれるのだとしたら、「その頭のよさにはなんか意味があるの?」という疑問が登場しえた時だけである。三島由紀夫の生きていた時代と社会は、その疑問を登場させなかった。そして、三島由紀夫は死んだ。今となっては、その疑問がたやすく登場しえる。今の人間なら、三島由紀夫の知性に対して、「その頭のよさにはなんか意味があるんですか?」という疑問をたやすく発せられるだろう。その疑問が公然と登場しえてどうなったか? 日本人は、ただバカになっただけである。」(『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』、「序」)

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かつて、江ノ島へ渡る橋の上にはおでん屋が並んでいた。1980年代撮影。

前回に紹介したとおり、橋本治は1968年の駒場祭の前後、大学闘争に深くコミットしていった同級生たちから「バカか、お前は──」という視線を投げかけられ、一ヶ月にわたり寝込む。そして「頭がよくなりたい!」と切実に思った。三島由紀夫は当時における近代的知性を代表する存在であり、三島と対峙した東大全共闘の学生もまた、自らが近代的知性の体現者であることを自認していた。だからこそ、三島は思想的な立場を超えて彼らと「討論」ができたのだ。

では橋本自身は、そうした近代的知性の在り方をどう考えていたのか。「頭のよさ」という点で、三島と自らも同じ側にいると考える東大全共闘から差し向けられた「バカか、お前は──」という視線と、そのときに橋本が感じた「頭がよくなりたい!」という切実な思いとは、どういう位相にあるのか。『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』を読むことで私が知りたいのは、なによりもそのことである。

他人と出会うことのない「閉じている」人

『豊饒の海』四部作を書き終えて、なぜ三島由紀夫は死んだのか。それは、この小説が「閉じている」作品だからだ、と橋本は断じる。

「《庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。……》──『豊饒の海』はこのように終わり、作者はどこへも逃げられない。それが、《記憶もなければ何もないところへ、自分は來てしまつたと本多は思つた。》である。これを書いた三島由紀夫は、《夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる》はずの「庭」を見て、「あ、そうか」の一言を発することが出来なくなっていた。「閉じている」とは、そういうことである。認識が閉じてしまったので、「夏の庭」を見ても、「夏の庭だ」と思えなくなってしまった。真理とは意外と単純なものである。」(第一章『豊饒の海』論、五 阿頼耶識)

『豊穣の海』という長編小説を支えるのは、第一巻『春の雪』の主人公である松枝清顕が後の時代に輪廻転生する、という不思議な論理である。そしてその論理を支えるのが、大乗仏教の瑜伽行唯識学派の概念である「阿頼耶(アーラヤ)識」の存在だ。阿頼耶識とは六識(眼・耳・鼻・舌・身の五識に加えて意識)の先にある末那識(自我)の、さらに先にあるとされる《存在世界のあらゆる種子(しゅうじ)を藏する識》のことだ。

そのように三島由紀夫は『豊饒の海』で論理形成をした上で、次のように高らかに宣言する。《世界を存在せしめるために、かくて阿賴耶識は永に流れてゐる。世界はどうあつても存在しなければならないからだ!》。だが橋本はこうした三島の議論にそのまま乗ることなく、次のように考える。

「末那識が《自我、個人的自我の意識のすべて》で、阿頼耶識が《その先》にあるのだとしたら、阿頼耶識とは「自分の外にある自分」であろうと、私は思うのである。「自分の外にある自分」とはなにか? つまりは、「他人への影響力」である。
(中略)
「自分」がいて、その周りには、膨大な数の「自分ではない他人」がいる。「自分」がその「他人」の中で生きている以上、「自分」と「他人」との間には、相互に「影響力」が生まれる。世界は人同士の「影響力」に満ち満ちて、その中でいろいろなものが形成されて行く。それでいいではないかと、私は思うのである」(同前)

そのように考える橋本にとって、三島由紀夫はなによりも「他人」と出会い損ない、「閉じている」状態を自らよしとした人だった。だから三島由紀夫は、『豊饒の海』全四巻の最後で松枝清顕の輪廻転生が否定されたとき、自らも死ななければならなかった。

「天動説」の悲劇

そんな三島由紀夫の知性の在り方を、橋本は「天動説」だという。三島だけではない、この時代までの近代的知性をもつ男たちの「知性の構造」はすべて天動説だった、と。

「男の知性が矛盾したものになってしまった理由は簡単である。男の知性の構造が天動説で、現実は地動説だからである。天動説の知性は、天動説として受け継がれて、はじめて「知性」としての意味を持つ。しかし、三島由紀夫が『豊饒の海』を書き進める時代は、学生運動の時代だった。かつては東京帝国大学だったところの学生が、かつては東京帝国大学の教授でもありえたような人物に向かって、公然と「バカヤロー!」を叫んでしまう時代だったのである。巨大な亀の甲羅の上で天動説の平らな地面を支えていた幾匹もの象は、「ナンセンス!」と叫びながら、平らな地面を揺るがしてしまったのである」(第一章『豊饒の海』論、六 天動説)

ここで気になるのは、三島ではなく、死ぬことなくその後も生き続けた、このときに「バカヤロー!」と叫んだ橋本の同時代人の行方だ。彼らは三島と同じ側に立つ「天動説」の人でありながら、同時にそうした「知性の構造」を揺るがした側でもあった。彼らはどこへ消えたのか。橋本は言う。平らな地面が揺れて、そこからほとんどの人間が滑り落ちてしまった後、「日本人は、ただバカになった」、と。

そう考える橋本が自分自身に備わることを求めた「頭のよさ」が、天動説であったはずがない。地動説に立ったうえで「頭のよさ」、つまり他者──「友」──とともにあることを可能とする、新しい知性の在り方を求めたはずだ。

前回に紹介したとおり、橋本治はこの本のあとがきに「三島由紀夫は、その初めから私とは関係がなかった」と書いている。しかし橋本は、三流劇画とポルノ映画を中心に論じた初期の評論集『秘本・世界生玉子』のエピグラフに、三島由紀夫の『サド侯爵夫人』の一節を引いている。橋本が自分は三島由紀夫とはほとんど関係がなかった、というのは韜晦にすぎない。

『秘本・世界生玉子』に収められた、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』の映画版に対する評論「芥川に捧ぐ」のなかで、橋本はこの映画を激しく批判しつつ、学園闘争の時代に訪れた「天動説」から「地動説」への転換について、すでに次のように書いていた。

「普遍というのは、予めある、世の中を構成している法則の中から導き出されて、それに人間があてはまっていくことじゃない。僕達人間が先にあって、そこから導き出された普遍というものに従って世の中が動いて行くということなんだ。僕達が片輪だったのは、僕達の中から導き出される普遍なんてものがまだ存在しないで、勝手に普遍だと信じ込まされているものが存在していて、そしてそれに僕達が合わせられないと感じてしまっていたからなんだ。
でも、僕達はもう知っている。僕達自身の中に普遍が存在しているということを。
僕達自身という個の中にある普遍というのは、僕達自身だ。それが普遍である以上、それはすべてに共通するものだけれども、それが又僕達自身という個である以上、僕達が存在するその数だけ普遍というものは存在するのだ」

ここに付け足すべき言葉はないだろう。

まだ見ぬ「友」に呼びかける声

『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』の終章で、橋本はこのように書いた。

「男というものは、どのようにして「男」になるのか? どのようにして「男」なるものを知るのか? 三島由紀夫の中で大きく欠落するのは、この要素である。「欲望」として男を求め、「恋」として男を求める三島由紀夫は、「友」としての男を大きく欠落させているのだ」
(終章『男という彷徨』、五 忘れられた序章)

さらには、このようにも。

「三島由紀夫が「なにもの」であったのかということの答は、この抜け落ちたものの「答」がなければ完結しない。三島由紀夫が生きて訴えた時代、そこにいた人達は、三島由紀夫にどう答えたのか? 果たして、その訴えに応ええたのか。三島由紀夫は、「友」を求めて「男」となったのである」(同)

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会津日中線のSL。熱塩駅にて。1976年頃撮影。

三島由紀夫はこの答えを、決起を呼びかけた自衛隊員だけでなく、他の誰からも得ることができず──というよりも、あらかじめ答えが得られないことを知り尽くした上で──自死した。ではもし三島が彼自身、「天動説」から「地動説」へと認識を根本的にあらためることができたなら、死なずに済んだだろうか。

橋本が東京大学に在籍していた1960年代の終わり、「三島由紀夫が信じていた古典的様式」、つまり近代的知性はすでに「時代遅れのもの」になろうとしていた。

「知性の質の転換、既に完結してしまった知性の〝その先〟が求められて、その答はなかった。大学の建物と機構はそのままで、大学の実質は崩壊、あるいは変質した。三島由紀夫が、閉じた自分自身の世界の中で判断停止に陥り、自殺してしまったのは、その時である。
(中略)
消えなければならなかったのは、三島由紀夫一人ではなかったはずなのだが、三島由紀夫は一人、その終末の到来を理解した。その判断停止は、時代と連動するものであり、時代は、天動説の孤独を浮き上がらせてしまっていた。それが、反乱の時代だった一九六〇年代末の実相である。三島由紀夫は、出口のない孤独に死に、そしてまた、時代と共に死んだのである。三島由紀夫と共に終わった時代の名を、「戦後」と言う」(同前)

橋本治が文章を書き始めた1970年代末、このときに三島に「応える」ことがなかった「男」たちは姿を消していた。だから橋本治は、三島とは別の意味で孤独だった。初期から最晩年に至るまで、橋本はその孤独に耐えつつ、それでも三島のように天動説の「知性の構造」に閉じこもることは断固拒否し、「友」を求める声をあげ続けた。その声に応える者が現れることを期待しつづけていた。

しかしそれに応える声は、どこからも聞こえてこない。だから橋本治はただ一人、21世紀に入ってからも「近代的知性」の再検討をし続なければならなかったのである。

参考文献
「三島由紀夫」とはなにものだったのか』橋本治(新潮社 2005年)
秘本・世界生玉子』橋本治(河出書房新社 1991年)