新田浩之

新田浩之

ラトビアの首都リーガにあるKGB博物館。元KGB(国家保安委員会)の建物を利用している。(筆者提供)

形式的な手続きが好きなソ連・ロシアの「住民投票」へのこだわり

2022年2月24日にはじまったロシア・ウクライナ戦争に関する報道のなかで「住民投票」という言葉を聞いたことはないだろうか。アメリカは「住民投票」の実施に強く反対している。「住民投票」は民主主義的な制度であるはずだが、なぜロシアが行う「住民投票」には問題があるのだろうか。1940年に行われたソ連によるバルト三国併合のプロセス、特にエストニアとラトビアの歴史から紐解いていく。

Updated by Hiroshi Nitta on September, 6, 2022, 5:00 am JST

民族的・文化的に違っても現代史は共有するバルト三国

話に入る前にバルト三国の概要・歴史について確認しておきたい。バルト三国はバルト海東南地域にあり、北からエストニア・ラトビア・リトアニアの三国が存在する。これら三国は一般的に「バルト三国」と呼ばれるが、民族的・文化的には差異が大きい。
たとえば言語面ではエストニア語はフィンランド語と同じくフィン=ウゴル語族バルト・フィン語派に属するが、ラトビア語とリトアニア語はインド=ヨーロッパ語族バルト語派に属する。宗教もエストニアとラトビアではプロテスタントのルター派が主流だが、リトアニアとラトビア一部地域ではカトリックが優位である。

一方、ここ約100年間の歴史は類似点が多い。第一次世界大戦後、バルト三国はロシア帝国から独立。民主主義国家としてスタートしたが、1920年代~30年代には他の東欧諸国と同じく権威主義体制になる。バルト三国の運命を決定づけたのが、1939年にヒトラーとスターリンの間で結ばれた独ソ不可侵条約であった。これには秘密議定書が付属し、エストニア・ラトビアはソ連の利益圏、リトアニアはドイツの利益圏に入ることが明記されていた。後にリトアニアもソ連の利益圏に入ることになる。ソ連は秘密議定書に基づき、1940年にバルト三国を併合した。三国が再び独立を回復したのは1991年のことである。

民主主義政府を「ブルジョワ政府」と規定し、エストニアは自発的な意思でソ連に加入したと説明

バルト三国の歴史を確認したことを踏まえて、手元にあるソ連時代に出版されたエストニアの首都タリンの英語ガイドブックを読んでみたい。このガイドブックはオールカラー写真で構成され、冒頭ではエストニアの歴史を紹介。西側諸国の人々を意識した構成になっているが、その内容はソ連に都合のいいことばかりが書かれている。

エストニアの首都タリンのガイドブック
エストニアの首都タリンのガイドブック。(筆者提供)

ガイドブックでは第一次世界大戦後の独立時代の民主主義政府を「ブルジョワ政府」と規定し、共産党員をはじめとする労働者が弾圧されたと述べている。1940年のソ連併合に関しては4万人もの労働者が首都タリンで示威行動を行い、1934年に成立した権威主義体制「ファシスト的権威主義体制」を自主的に崩壊に追い込んだと指摘。人々の自発的な意思でソ連に加入し、ナチス=ドイツの占領はあったものの、ソ連の一共和国として大いに発展しているという内容だ。なおソ連は長らく秘密議定書の存在を否定したため、このガイドブックには併合を認めた秘密議定書の記述はない。このあたりはモルダビア共和国(現モルドバ共和国)のソ連時代のガイドブックを見ても、歴史の紹介文の基本的構成は似通っている。

当然ながら、ソ連時代のバルト三国の学校においては上記のソ連史観が教えられ、独立時代のことは完全に否定された。歴史に見直しが行われたのは1985年のゴルバチョフ書記長によるペレストロイカ以降である。
さすがに現在のロシアの体制寄りの文化人もソ連史観をそのまま受け入れてはいないが、バルト三国の人々の自発的意思によりソ連に加入したという考えは持っている。

一方、エストニアだけでなくバルト三国ではソ連による「占領」と主張している。併合後、旧政権の指導者や官吏、将校が大量解雇・逮捕され、女性や子どもを含む多くの人々のシベリアへの追放が強行された。1953年のスターリン死去後はバルト三国でも「雪解け」により大量追放がなくなり、政治色を帯びない範囲で文化的活動は認められるようになったが、ソ連からの独立を求めるような運動は弾圧されたのである。
独立後は書籍やイベントなどを通じて「占領時代」特にスターリン期の悲惨な出来事が後世に伝えられている。筆者もバルト三国にて歴史博物館を訪れたが、どの国でも写真や映像を通じて民族的悲劇を後世に伝えていた。つまり、バルト三国では現在でも占領史観が強化されている。

形式的な手続き論にこだわり「住民投票」を実施

なぜ現在でもロシアではバルト三国併合は「人々の自発的意思によるもの」という考えが主流なのだろうか。そもそも、そのような見方は正当性を持つのだろうか。このような考えを生んだ背景には形式的な手続き論にこだわったソ連の姿勢が挙げられる。ここからはラトビアを例に挙げ、もう少し併合のプロセスを詳しく見ていきたい。

1939年8月、先述した独ソ不可侵条約が締結される。同年秋にラトビアは10月にソ連との間で相互援助条約を締結し、ソ連軍の駐留がはじまった。この間バルト三国はソ連との良好な関係を維持しながら、列強からの支援を得るべく時間稼ぎに徹した。
翌1940年になると、事態はエスカレートする。ソ連は1940年6月、1930年代締結のバルト協商が反ソ的であると強く非難した。ソ連は軍を国境地帯に結集させ、ソ連軍の無制限駐留、現政権の追放と親ソ政権の交代を要求。最終的にソ連軍が特使と共にラトビアに侵入し、親ソ政権が樹立された。ソ連流にいえば「社会主義革命」の達成であり、先述したガイドブックにあるエストニアの首都タリンでの4万人の示威行動も同時期に起きた。

エストニアの首都タリンの旧市街
エストニアの首都タリンの旧市街。2008年撮影。(筆者提供)

しかし、親ソ政権が樹立されたからといって、自動的にラトビアがソ連の一共和国になったわけではない。7月に親ソ政権はソ連主導の下で「人民議会」の選挙を実施する。表向きは民主的な自由選挙を標榜したが、実態はまったく民主的な選挙とは言えなかった。選挙自体がソ連によって監視され、野党や著名な文化人が立候補を試みたが許可されなかった。その代わり、ソ連が認めた「労働者」のみ立候補できた。選挙自体はソ連と同じく原則として一選挙区に一人しか立候補せず、事実上の信任投票であった。
投票も秘密選挙は一切守られず、有権者への脅迫など違法行為が横行。挙句の果てにソ連の軍人が投票する始末だった。最終的に親ソ政権の思惑通りに事が進み、人民議会は体制側の議員で占められた。人民議会はソ連加入を支持し、8月にエストニアとリトアニア代表と共にモスクワを訪れ、ソ連への加入申請をした。スターリンはこれを承諾し、正式にエストニア、ラトビア、リトアニアはソ連の一共和国になったのである。

それにしても、なぜソ連ないしロシアはここまで「住民投票」すなわち民主主義的な手続き論に固執するのだろうか。様々な要因が考えられるが、ひとつには元来ロシアが持つヨーロッパへの意識が挙げられる。池田嘉郎氏はロシアは近現代ヨーロッパが打ち出した枠組みに依拠して自分たちのおこないを説明ないし正当化する一つのパターンがあると指摘する。

現代思想』Vol50-6(青土社 2022年5月)


実態は問題だらけの選挙だが、ソ連からすると形式的には人々の意思を確認しているという理屈なのだろう。当然ながらバルト三国はこの選挙結果を認められるはずがなく、先述したとおり、人々の意思を無視する形でソ連の占領が行われたとみなしている。

解釈の違いは独立後の関係に影を落とす

バルト三国併合プロセスの解釈の差異は、1991年以降のバルト三国の独立回復以降もロシアとの間に影を落としている。その一例が、エストニア・ロシア間で生じた国境問題だ。
1991年にエストニアはソ連から独立したが、ソ連の後継国家ロシアとの間で国境問題が生じた。係争地域はロシア領の約2300㎢で、住民の大半はロシア人である。
エストニアはソ連併合により強引に国境線が西寄りになったと主張し、ソ連がエストニア独立を承認した1920年のタルトゥ条約に基づき領土の返還を求めた。一方、ロシアはエストニアが自発的にソ連に加入したと主張し、タルトゥ条約は破棄されたという認識を持っていた。
最終的に当時の政治情勢もあり、2014年2月にエストニアのパエト外相とロシアのラブロフ外相がモスクワにて国境画定条約に調印した。微修正はあったものの、ロシアの実行支配が全面的に認められ、領土要求の相互放棄が盛り込まれた。しかし、合意達成には20年以上を要しており、問題の解決が容易ではなかったことがうかがえる。

このようにソ連主導の「選挙」は「人々の意思を反映した」ことを示すパフォーマンスに過ぎなかった。ロシアも2014年以降ウクライナ占領地域で「住民投票」を実施しているが、様々な疑惑が生じている。短期的には住民の意思を無視した形で親ロ政権の樹立や併合などの出来事が行われることは、誰でも想像ができる。しかし、仮に占領地域が人々の意思に基づいて母国に復帰したとしても、エストニア・ロシア間の国境問題のように「住民投票」「選挙」の解釈をめぐって新たな問題が生じる可能性もある。過去のソ連の行動パターンを一般化することで、ロシアの動きを予見できると同時に、確実ではないにしろ、長期的に発生する問題が予見できるのではないだろうか。

参考文献
物語バルト三国の歴史 エストニア・ラトヴィア・リトアニア』志摩園子(中央公論新社 2004年)
記憶の政治 ヨーロッパの歴史認識紛争』橋本伸也(岩波書店 2016年)
「戦争とアイデンティティの問題」塩川伸明 池田嘉郎、『現代思想』Vol50-6、25頁~42頁(青土社 2022年5月)
Baltic Facades Estonia Latvia and Lithuania Since 1945,Aldis Purs(Reaktion Books 2012年)
TALINN.PLANETA. Tamara Tomberg(Planeta Publishers 1982年)
廣瀬陽子「ロシアとエストニアの領土問題解決北方領土への影響は?」(閲覧日2022年8月30日)