久野愛

久野愛

ハワイのスワップミート(蚤の市)。2000年ごろまでオアフ島パールシティーのドライブインシアターで行われていた。市民が不用品を持ち寄って、売ったり買ったり交換するイベントだった。

(写真:佐藤秀明

人は、経済的・社会的・文化的要因の中で消費者になる

逆説的ではあるが、データを駆使する社会ではこれまでより一層「欲求」について考える機会が増えるだろう。なぜデータが必要なのか、データを用いて何をしたいのか、データは人が何を欲していると表しているのか……。考えていくうちに、欲求こそが人の本質に近いものだと感じるようになるかもしれない。
しかし大量消費社会においては、欲求は生産システムの一部にすぎない。実は我々が自然に発生すると思っている感情はつくられたものなのである。欲求や消費と人との関係を紐解いてみる。

Updated by Ai Hisano on September, 27, 2022, 5:00 am JST

消費とは、コミュニケーションである

前回の消費社会・文化論に続いて、今回は1970年代以降に登場した消費社会研究に目を向ける。マルクス主義の影響を受けた理論、特にフランクフルト学派の議論を受け継ぎつつも消費文化に対して新たな論点を提供した研究者・理論家について、2点に絞ってみていくこととする。一つは、消費社会のみならず社会批判理論に大きな影響を与えたジャン・ボードリヤールによる議論である。もう一つは、消費主義社会を批判的に捉えながらも、その影響の多様性を論じるもので、特に歴史学者や文化人類学者らによる研究である。

ボードリヤールは、マルクスの商品価値の理論とソシュールの言語学をもとに新たな消費文化論を打ち立てた。商品は記号(コード)であり、消費は言語活動だと考えたのだ。つまり、消費者は、モノ(例えば洗濯機)の機能だけを理由に購入するのではなく、そのモノが持つ記号としての意味(例えばモダン、理想的な家族像、女性らしさ、など)を消費し、さらにそれを他人に提示することでコミュニケーション(=言語活動)を図るのである。

欲求とは生産システムの一要素にすぎない

こうした消費のあり方は、ボードリヤールによれば、消費者の自律性や自由な選択と関わる問題でもある。「欲求はもはやモノではなくて価値をめざす」ようになり、「消費者の無意識的で自動的な基本的選択とは、ある特定の社会の生活スタイルを受け入れること」を意味する。よって、これは真に自由な「選択」とはいえず、「消費者の自律性や主権」というものは、「産業システムのイデオロギー」に過ぎず、ただ幻想としてあるだけなのだ。ボードリヤールは下記のようにも述べている。

消費社会、それはまた消費の仕方を学習する社会、消費についての社会的訓練をする社会でもある。つまり、新しい生産力の出現と高度の生産性をもつ経済的システムの独占的再編成に見合った社会化の新しい特殊な様式といえるだろう。

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ヨルダンのリゾートホテル。近くにペトラ遺跡がある、砂漠の中人気ホテルだ。

欲求は、あるモノに対して(つまり個人とモノの間で)生み出されるのではなく、生産システムの一要素として生み出される。そこでは、前回触れたジョン・ケネス・ガルブレイスらが提起したような「企業に操られる(または騙される)消費者」という構図も成り立たなくなる。ボードリヤールによれば、ガルブレイスや他の経済学者らは、宣伝広告やPR、市場調査などが「悪魔的な力」によって、「人間とモノとの関係や人間と自己との関係がごまかされ、あいまいにされ、操作されていることを」示そうとした。だが、欲求がモノに向かっているのではなく、また欲求はそもそも生産システムの一部なのであり(よって「『消費』は生産の論理的かつ必然的中継地点」となる)、消費者の欲求や感情もその生産システムに統合されているのだ。例えば広告についてみると、北田暁大が論じるように、ボードリヤール、またマックス・ホルクハイマーテオドール・アドルノら(前回参照)にとって、広告はもはや「文化産業のイデオロギー装置として回収しえない」ものであり、「大衆の生活世界を疎外するというよりは、むしろ商品世界—内—存在として生きる人びとの生の地平として広告が現前」するようになったのだ。換言すれば、消費者や消費は、生産者や生産の対極にあるのではなく、消費社会においては常に共犯関係にあるともいえる。ここでは、ラスキンが考えるような「賢明な消費」というものはあり得ないことになるだろう。

ボードリヤールの議論には、1960年代以降の言語論的転回の影響が如実に現れており、彼自身、構造主義研究者の一人として位置づけられている。また、1968年パリでの五月革命でも重要な役割を果たしたシチュアシオニストの一人ギー・ドゥボールの影響も大きく、ボードリヤールの理論もその時代の産物だといえる。ボードリヤールは『消費社会の神話と構造』(1970年)を次のように締めくくり、自身が考える消費社会からの解放に期待を寄せる。

ある日突然氾濫と解体の過程が始まり、1968年5月と同じように予測はできないが確実なやり方で、黒ミサならぬこの白いミサをぶち壊すのを待つことにしよう。

ボードリヤールの儚い望みは、果たして実現されたのだろうか。ここでは、ボードリヤールと同時代もしくは少し後の世代の研究者らが明らかにしようとした消費社会の異なる一面に注目したい。そこでは、ボードリヤールが期待した「解放」ではないにせよ、資本主義社会のイデオロギーに取り込まれつつも、微妙なバランスの中で消費を体験する人々の姿が立ち現れる。

大量消費・大量生産が始まり、消費の「意味」が考えられるように

ボードリヤール以降、消費は単なる機能としてのモノだけでなく、記号としてのモノ、つまりモノに付随する意味を消費するものとして理解されるようになった。だが同時に、彼の悲観的な消費社会への見方やマルクス主義的影響からは距離を置き(またはそれらを引き継ぎつつも)、消費社会の新たな一面を掘り起こす研究が注目されるようにもなった。文化人類学者のメアリー・ダグラスとバロン・イシャーウッドによる『The World of Goods: Towards an Anthropology of Consumption』(1979年)や、歴史学者リチャード・フォックスとT・J・ジャクソン・リアーズ編の『The Culture of Consumption: Critical Essays in American History, 1880–1980』(1983年)などがその先駆的研究である。

これらは、大量消費社会の到来を批判的に捉えているという点では、それまでの消費文化論の俎上に乗るものである。だが、消費者のあり方や消費行動の意味や影響の見方が大きく異なっている。例えば、消費者は受け身にただ企業の宣伝に操られる存在なのではなく、一定の意志を持ちながら、消費を通して自らのアイデンティティを構築したり、また人との関係を築いたりもする。さらに、抽象的な概念的存在として従来議論されてきた「消費者」に、具体的な顔・声を与えたという点でも重要である。「消費者」という括りというよりは、黒人や女性、メキシコ系移民など、様々な社会経済的グループによって異なる消費体験を緻密に分析しようとしたのである。

消費は経済だけで語れない。文化、社会、政治を作っていく

さらに、大量生産された商品は、単に文化や人々のライフスタイルを画一化したわけではない。歴史学者リザベス・コーエンの研究が示すように、労働者階級やエスニックコミュニティの住人たちは、映画やラジオというマスメディアを自らの階級・エスニックアイデンティティやコミュニティの構築のために利用してもいた。移民史研究者のジョージ・サンチェスによるロサンゼルスにおけるメキシコ系移民へのアメリカ音楽産業の影響についての考察も同様で、ホルクハイマーやアドルノの文化産業によって画一化する大衆文化という理解とは異なっている。これらの研究は、必ずしも経済・社会システムに内在する消費や欲求を「解体」または「解放」することを目指すのではなく、メインストリームの文化や経済主体に取り込まれながらも、その中で自らの意思や行動を生み出そうとする人々として、消費者を捉えようとしたのである。

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大阪の新世界にそびえる通天閣。2010年ごろ撮影。

消費社会・消費文化研究は、歴史学、人類学、社会学、カルチュラル・スタディーズ、消費文化理論(Consumer Culture Theory、通称CCT)など様々な研究分野で論じられてきた。これらの学問分野は、研究手法や分析枠組みなどに違いはあるものの、消費活動を経済的なものとしてだけでなく、文化的・社会的・政治的なものとして捉え、「消費」や「消費者」の意味が時代や社会によって異なるという立場をとる点で共通している。例えば、階級やジェンダー、エスニシティなどが構築・差異化されていく消費社会のあり方や、市場(マーケットプレイス)で何が起きているのかということだけでなく(むしろそれ以上に)、消費活動がいかに社会や文化を構成し、また逆に構成されるのかにその分析の主眼を置いているのだ。

人は、経済的・社会的・文化的要因の中で消費者になる

こうした消費文化に関する議論は、消費社会の誕生や歴史的変遷、消費の社会的・文化的意味の考察を通して、現代社会の消費のあり方についても様々な示唆を与えてくれる。まず一つに、ボードリヤールがいうように、モノは単なる物質であるだけでなく、意味を持つ記号でもある。つまり人は、ただそのモノが欲しいから購入するのではなく、それを買ったり所有したりすることで、例えば自分のライフスタイルを作り出すのだ。よって消費とは、その人の生き方であるともいえるだろう。人が何を・なぜ消費するのか、そしてその消費によってどのような生き方をするのか。上記で触れた研究者・論者は、これらの問いに様々な角度から光を当ててきたといえるだろう。

さらに消費研究を通して見えてくるのは、「消費者」とは歴史的構築物であり、単に「消費をする人」という非歴史的で表面的な意味では決して理解し得ないものだということである。人は生まれながらに消費者なのではなく、その時代・場所の経済的・社会的・文化的要因の中で作られた消費者に「なる」のだ。今日、私たちの生活のほぼあらゆる場所・活動が、何らかの消費と切り離せなくなっており、自分が「消費者」たることに何の疑問も持たないことが多いかもしれない。だが、消費者であるとはどういうことなのか、消費の歴史を紐解くことで、消費を通した自分と社会との関係の見方が少し変わるかもしれない。

参考文献
メディア・情報・消費社会』井上俊・伊藤公雄編(世界思想社 2009年)
ゆたかな社会 決定版』ジョン・ケネス・ガルブレイス 鈴木哲太郎訳(岩波書店 2006年)[The Affluent Society (1958)]
広告の誕生—近代メディア文化の歴史社会学』北田暁大(岩波書店 2008年)
スペクタクルの社会』ギー・ドゥボール 木下誠訳(筑摩書房 2003年)[La société du spectacle (1967)]
消費社会の神話と構造 新装版』ジャン・ボードリヤール 今村仁司・塚原史訳(紀伊国屋書店 2015年)[La Société de consommation (1970)]
Cohen, Lizabeth. Making a New Deal: Industrial Workers in Chicago, 1919–1939. Cambridge University Press, 1990.
Douglas, Mary, and Baron Isherwood. The World of Goods: Towards an Anthropology of Consumption. Psychology Press, 1979.
Fox, Richard, and T. J. Jackson Lears. Eds. The Culture of Consumption: Critical Essays in American History, 1880–1980. Pantheon, 1983.
Sanchez, George. “Familiar Sounds of Change: Music and the Growth of Mass Culture.” In Consumer Society in American History: A Reader. Lawrence B. Glickman. Ed. Cornell University Press, 1999. pp.170–189.

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