松村秀一

松村秀一

京都・北山の杉磨き。この風景は北山の冬の風物詩だった。1976年撮影。

(写真:佐藤秀明

機械はけがらわしいから使わないまでだよ-2500年前からの問いかけ-

ものづくりの世界で進む機械化。それは安全や効率化をもたらすものである一方、職人の世界から技術や楽しみを奪っていくものでもある。実際に建設の現場では何が起きているのか。東京大学で建築学の特任教授を務める松村秀一氏が紹介する。

Updated by Shuichi Matsumura on October, 3, 2022, 5:00 am JST

ボンドと電動工具を多用する「大工の正やん」

コロナ禍に入って1年程してからだっただろうか、工務店経営者の方数名とオンライン飲み会を楽しんでいた時のことだ。ある経営者の方から
「先生は、ボンドと電動工具を多用する最近の大工の現場作業の様子をじっくりご覧になったことはありますか」
と問われた。
「そう言えば、長らくじっくりと見る機会はないですね」
と答えると、それならということで、あるYouTubeチャンネルを紹介された。「大工の正やん」というチャンネルだった。
「この『正やん』という人がどこのどういう大工かはわかりませんが、YouTube上に公開されている『正やん』の作業の様子を見れば、この『正やん』が、ボンドと電動工具を多用するようになった現代の大工の中でも、相当に腕利きの大工だということがわかります。面白いですから一度見て下さいよ」
と、かなりの熱量だったので、そのオンライン飲み会の翌日、早速「大工の正やん」を探し出して拝見した。

一つの動画はせいぜい10数分程度なのだが、面白いので立て続けに十本以上の動画を見てしまった。これは掛値なしに面白い。大工の作業ってこんなに種類があったっけと思うほど、正やんは毎回毎回違う作業を行い、丁寧に細部を説明してくれる。腕利きのベテラン大工だから説明は的確だし、作業そのものの動きは無駄がなく見惚れてしまう。

そして何と言っても驚いたのが視聴者数。私が初めて視聴したのは2020年の秋頃だったかと思うが、回によっては延べ100万近い人が見ていたし、チャンネル登録者数は20万人を超えていた。2022年の9月時点では、その数は40万人を超えている。書き込まれているコメントを見ていると、素人も玄人も、そして日本人も外国人も大いに「正やん」の腕、技を楽しんでいるようだ。

「ボンドと電動工具を多用」と言うと、何か昔の大工道具は使えなくなった今時の大工というふうに聞こえるかもしれないが、それが大きな間違いであることは、この動画を2、3本も見ればわかる。
「正やん」の年齢は65歳。大工歴は50年近くになる。だから、ボンドや電動工具を多用する前の時代から大工であり、当然ながら昔からの大工道具の使い方も上手なのである。また「ボンドと電動工具」と言うと、誰でも簡単に使えるので、それ以上語るべき技の奥深さ等はないように思うだろうが、この「大工の正やん」を見ていると、決してそうではないことがわかってくる。

職人の適正な収入は電動工具が支えている

100本以上ある動画の中には、「正やん」が自分の持っている電動工具がどういう時にどのように使う工具かを説明してくれる回があるのだが、先ずその持っている工具の種類の多さに驚かされる。そして、それぞれのちょっとした違いと、そのちょっとした違いのある工具を揃えることの必要性を、すべて丁寧に説明してくれたのには脱帽だった。それでも「正やん」は腕利き大工ぶることもなく、いつも普通の大工然として、誠実に全力で自分の仕事をこなしている。そこにまた多くの人が惹かれるわけだ。

徳島県美馬市脇町のうだつの立派な街並み
徳島県美馬市脇町のうだつの立派な街並み。2010年撮影。

「大工の正やん」を見ていると、もし電動工具がなかったら一体大工はどうやって住宅1棟を建てられたのだろうと不思議に思えるくらい、電動工具が活躍する。「昔の道具は職人の腕の一部になっていた。それに比べて」というような言い方で電動工具を揶揄する向きもあるが、「大工の正やん」では、電動工具も職人の腕の一部になっていると言って良いようなレベルにある。実際、今日の大工の存在をその仕事の効率、ひいては適正な収入の確保という面で電動工具が支えてきたことは、容易に想像がつく。

もちろん、電動工具の恩恵は何も「正やん」のようなプロの職人ばかりでなく、多くのDIYerも受けていることを忘れてはいけない。YouTube上にはDIYの動画も数多く流れているが、ビス止めや釘打ちに電動工具を使うのは当たり前だし、木材を切るのに電動鋸を使うのも普通のことになっている。これらの工具の効率の良さや、それによる作業負担の軽減を目の当たりにすると、これらがDIYの敷居を低くしていることは明らかなように思える。
ものづくり未来人を考える上で、電動工具は必須の道具立ての一つということになるだろう。

手加工に憧れる女性大工

今の大工の仕事を考えると、木造建築の柱や梁にほぞ穴をあけたり、柱や梁の端部に継手仕口と総称される複雑な形状の接合部を加工したりする仕事は、殆どのプロジェクトで大工の仕事ではなくなっている。建物の図面さえ入力しておけば、そういう加工を自動で済ませてくれるある種のロボットを装備した「プレカット工場」と呼ばれる企業の仕事になっているのだ。大工のところには、既に必要な個所に、必要な形状加工の施された柱材や梁材が届く。大工たちは現場でそれらを組み立てれば、それで良い。電動工具は大工の手元に仕事を残したが、プレカット工場は大工の仕事の一部を持っていった。プレカット工場の機械が今ほどの効率でなかった20世紀中には、この仕事をプレカット工場に渡すか、それとも大工の手元に残すかでせめぎ合いもあったが、今やコスト面での勝負がはっきりとついてしまった。

しかし、この「ものづくり未来人」の中で女性大工の話を聞いた折には、「自分は手加工がやりたいので、今でも手加工を主にしている工務店に入りました」という女性が何名かいた。コスト面で勝負がついていても、一般的なプレカット工場が対応できないような規格外の木材を使用した建築もあるし、古民家の再生の仕事などになると、今のプレカット機械では対応していない種類のかつての継手仕口を直したり、新たにつくったりしなければいけなくなるので、手加工の必要性は少なくなったとしても決してなくなりはしない。彼女たちは、そういう必要性が続くことを期待して、そういう必要性に応えている工務店に、手加工できるような大工になりたいからこそ入るのである。

ここには、一筋縄ではいかない二つの考え方のコンフリクトが見え隠れする。一つはプレカット機械で生産効率を上げつつ、大工の仕事を肩代わりし、大工が少なくなっても何とか建築の仕事ができるようにしていこうという考え方。もう一つは、この手加工にこそ大工仕事の醍醐味があると考え、豊かなものづくり未来人を目指すならば、安易にプレカット工場に頼ってはいけないという考え方である。

生命のはたらきの安定を失ったものは、道から見離されてしまう

沖縄県宮古島の風景
沖縄県宮古島の風景。1970年代撮影。

こういうことについて考えているといつも思い出す話がある。2500年程前に書かれたという「荘子」に出てくる「はねつるべ」の話だ。少々長くなるが、とても示唆に富む話だと思うので、以下に森三樹三郎氏訳の中公クラシックス「荘子Ⅰ」からその話の部分を引用しておきたい。

子貢(孔子の弟子)が南方の楚の国に旅行をし、晋の国に帰ろうとして漢江の南にさしかかったとき、ひとりの老人に出会った。その老人は畑つくりをするために、坂道を掘って井戸のなかにはいり、瓶に水をくみ、かかえて出ては畑にそそいでいる。ひどく労力ばかりが多くて、しかもいっこうに仕事の能率があがらない。そこで、子貢は老人に声をかけた。
「水をくみなさるなら、よい機械がありますよ。一日のうちに百ほどの畦に水をやることができ、労力はたいへん少なくて能率があがります。あなたは欲しいと思いませんか」
すると、畑つくりの老人は、顔をあげて子貢を見ながら答えた。
「そりゃ、いったい何だね」
「それは木を細工してつくった機械で、うしろが重く、前が軽いようにできています。これを使うと、まるで軽い物を引き出すように水をくみあげることができ、しかも速度がはやいので、あたりが洪水になるほどです。その名は、はねつるべといいます」
すると、畑つくりの老人は、むっと腹をたてたようすであったが、やがて笑って答えた。
「わしは、わしの先生から聞いたことがある。機械をもつものには、必ず機械にたよる仕事がふえる。機械にたよる仕事がふえると、機械にたよる心が生まれる。もし機械にたよる心が胸中にあると、自然のままの純白の美しさが失われる。純白の美しさが失われると、霊妙な生命のはたらきも安定を失う。霊妙な生命のはたらきの安定を失ったものは、道から見離されてしまうものだ、と。
わしも、その機械のことなら知らないわけではないが、けがらわしいから使わないまでだよ」
これを聞いた子貢は、顔をまっかにして恥じ入り、下を向いたまま答えることばもなかった。
(中略)
子貢は青ざめて色を失い、ぼうぜんとして自失したまま、三十里ばかりあるいたあとで、やっと正気にかえった。

何だ、2000年以上前の古臭い精神論の話ではないかと感じる向きもあるかもしれない。しかし、ここでの老人の言葉は、当時の人間と社会の様々な失敗の経験に基づくものだと考えるのが妥当であろうし、その失敗の詳細は語らず、「道から見離されてしまう」という普遍的な表現をしているものの、少なくとも胸に手を当ててみる価値はある。

道具が身体性を帯びるかどうかが分岐点

先のプレカットという技術の適用に関しては、当初から次のような議論があった。当面の間は、手加工の経験のある大工がプレカット工場で加工された柱材や梁材を使うのだから、いざとなれば彼等には手加工ができる。いざとなればというのは、例えば、プレカットでは対応できない形状の接合部を持つ既存の木造建築の修理や、増改築を依頼された時である。

実際、プレカットの全自動機械が上市された1990年頃から30年を経て、手加工の技を身につけた経験のある大工は50歳代後半になり、それより若い多くの大工が手加工の必要には対応できなくなっている。先の女性大工の所属する工務店のように、手加工の技を生きた技として継承している組織がかろうじてあるにはあるが、これまでの趨勢から見れば、そしてこの問題に対する業界の態度が変わらないとすれば、絶滅危惧種であると言っても言い過ぎではないだろう。では、手加工の技は絶滅して良いのか。今の3D加工技術を前提とすれば、技術的には問題ないという考えがあり得る。それでは、大工を目指す人間にとってはどうなのだろうか。手加工という領域がなくなって良いと言い切る根拠はなかなか見出せない。「道から見離されてしまう」という言葉が意味することは何なのか。ついそれを考えてしまう。

他方、「大工の正やん」が自分の腕のように使いこなしていた電動工具はどうなのだろう。あいまいさを排除しきれないが、道具があそこまで身体性を帯びてくると、それは荘子の話の中に象徴的に出てくる「はねつるべ」の仲間には属さないのではないか。私にとっては暫定的だし、皆さんにとってはどこか腑に落ちないところがあるかもしれないが、電動工具とプレカット工場との間には、道具の帯びた身体性という観点から線を引こうと思う。初めて釘打ち機を操作したDIYerの喜びの表情を見ると、それはものづくり未来人の豊かさに繋がるものと思えてくる。

参考文献
中公クラシックス 荘子Ⅰ』 荘子 森三樹三郎訳(2001年 中央公論新社)

「話題の新技術にとびつく思考停止中の意思決定者が、ものづくり人の世界を危うくしている」につづく