新田浩之

新田浩之

クロアチア独立記念日の式典のようす。

(写真:Mikhail Markovskiy / shutterstock

クロアチアにみる、「未承認国家」が解体される日

2023年1月現在、ロシアに侵攻されたウクライナの大きな悩みの種となっているのが、国土内にできた2つの未承認国家「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」の存在だ。ウクライナの国土であったはずの土地が、親ロシア派の「国」になってしまうことは事実上、国土が略奪されることになる。どうすれば、この未承認国家を崩壊させられるのか。参考になるのは、2022FIFAワールドカップでも話題になったクロアチアだ。

Updated by Hiroshi Nitta on January, 13, 2023, 5:00 am JST

そもそも「未承認国家」とは何か

クロアチアを見ていく前に、「未承認国家」の定義について確認しておきたい。そもそも「未承認国家」という用語は英語の”Unrecognized Nation”の邦訳ではあるが、日本では明確に定義付けされないまま使われている感がある。
廣瀬陽子氏は『未承認国家と覇権なき世界』においてニーナ・カスパーセン氏による「未承認国家」の定義を紹介している。定義は以下のとおりである。

(1) 未承認国家はそれが権利を主張する少なくとも三分の二の領土と主要な都市とカギとなる地域を含む領域を含合しつつ、事実上の独立を達成している。
(2) その指導部はさらなる国家制度の樹立と自らの正当性の論証を目指す。
(3) そのエンティティ(政治的な構成体)は公式に独立を宣言している、ないし、たとえば、独立を問う住民投票、独自通貨の採用、明らかに分離した国家であることを示すような同様の行為を通じて、独立に対する明確な熱望を表明している。
(4) そのエンティティは国際的な承認を得ていない、ないし、せいぜいその保護国およびその他のあまり重要でない数カ国の承認を受けているに過ぎない。
(5) 少なくとも二年間は存続し続けている。

この定義に当てはまる例に台湾がある。2022年12月現在、台湾と外交関係があるのは14カ国にとどまり、台湾はほとんどの国際機関には加盟していない。なおウクライナに存在する未承認国家「ドネツク人民共和国」はドネツク州の約60%と同州の最大都市ドネツク市を実効支配していることから、上記の定義にギリギリ当てはまることになる。

民族主義的歴史家が指導者となり、クロアチア・ナショナリズムが高まる

クロアチアはアドリア海を挟んでイタリアの対岸にある国だ。人口は約400万人となり、スラヴ系南スラヴ語群のクロアチア人が約90%、セルビア人(セルビア系住民)が約3%を占める。1991年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国(旧ユーゴ)からの独立を宣言した。

第二次世界大戦後、チトーは6共和国(スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア)2自治州(ヴォイヴォディナ、コソボ)から成る旧ユーゴスラビアを建国。クロアチアは連邦を構成する一共和国であった。
旧ユーゴの首都はクロアチアの隣国であるセルビアのベオグラードに置かれた。クロアチアには歴史的にボスニア・ヘルツェゴビナやセルビアの近くにセルビア系住民が居住していたが、旧ユーゴ時代はクロアチア人との関係は比較的良好だったと言われている。ただし、第二次世界大戦期はナチス・ドイツの傀儡国家「クロアチア独立国」が多くのセルビア系住民の命を奪ったという事実は共有しておきたい。

トゥジマン大統領の銅像
クロアチア共和国、トゥジマン大統領の銅像(著者提供)

1980年のチトー死去後、国内経済の悪化や国際情勢の変化などにより、旧ユーゴに陰りが見えてきた。各地で自治拡大を目指す民族主義的な運動が起き、社会の民主化を求める声も大きくなった。もちろんクロアチアも例外ではなく、1980年代後半に民族主義的歴史家であったトゥジマンが台頭した。トゥジマンはクロアチア・ナショナリズムを用いて人々の支持を集める。1990年4月から5月にかけてクロアチアで行われた複数政党選挙にてトゥジマン率いるクロアチア民主同盟が勝利を収め、トゥジマンはクロアチアの指導者となった。一方、この頃からセルビア系住民の公職追放や反セルビア宣伝が日常化した。

「二級市民」になることを恐れたセルビア系住民が自治区を設立。やがて未承認国家へ

当然、国内のセルビア系住民は危機感を覚えた。クロアチアが独立を達成すると、自分たちが「二級市民」として冷遇されることを恐れたのである。また、第二次世界大戦時に起きたクロアチア独立国による虐殺の記憶も想起された。やがてセルビア系住民は「独立反対」を明確化し、1990年9月、クロアチア領内に「クライナ・セルビア人自治区」を創設した。つまり、クロアチア中央政府がコントロールできない地域が生まれたのである。
一方、旧ユーゴの共和国の間では、連邦の在り方をめぐって対立が生じた。1991年3月から行われた旧ユーゴ各共和国の指導者が集まった「6人サミット」にて、トゥジマンは旧ユーゴの国家連合化もしくは平和的な連邦解体を求めた。一方、セルビアのミロシェビッチは連邦維持を目指しつつも、国民投票により連邦解体がなされる場合は、旧ユーゴに住む全セルビア人が統一国家の下に結集すべきと主張した。すでにこの頃から、クロアチアではクロアチア警察隊とセルビア人武装部隊との衝突が発生していた。

1991年6月、セルビア系住民が反対する中、トゥジマンはクロアチアの独立を宣言。セルビア系住民は独立宣言に強く反発し、セルビアはクロアチア内のセルビア系住民を支援した。セルビア国境近くのヴコヴァルがセルビア(ユーゴ人民軍)からの猛攻を受けたのは1991年8月から11月のことである。

セルビアの猛攻により甚大な被害を受けたヴコヴァル
セルビアの猛攻により甚大な被害を受けたヴコヴァル(著者提供)

一方、セルビア系住民は同年12月に「クライナ・セルビア人共和国」のクロアチアからの独立を宣言し、クロアチア国内に未承認国家が成立することになった。領土は主にボスニア・ヘルツェゴビナ国境近くのクライナ地方とセルビア国境近くの東スラヴォニア地方から成り、クロアチアの国土の3分の1を占めた。「首都」はクライナ地方のクニンに置かれた。東スラヴォニア地方は飛び地になり、ボスニア・ヘルツェゴビナ内の未承認国家「スルプスカ(セルビア人)共和国」やセルビアを介してクライナ地方とつながっていた。
当然、クロアチアがセルビア系住民による「クライナ・セルビア人共和国」の独立を認めるはずがなかった。
1992年1月、クロアチア、セルビア※1は国際社会が提示した停戦協定(ヴァンス和平案)に同意。「クライナ・セルビア人共和国」は存続することになり、同共和国内にUNPROFOR(国連保護軍)が派遣されることが決定した。

※1 セルビアは1992年にモンテネグロと共にユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)を成立させるが、ここでは便宜的に「セルビア」と表記する。

生まれたての未承認国家は大構想に固執。自国の利益を守りたい本国と食い違う

しかし「クライナ・セルビア人共和国」は一枚岩ではなかった点は注目に値する。バビッチ「クライナ・セルビア人共和国」大統領は大セルビア構想に固執し、「クライナ・セルビア人共和国」をセルビア統一国家の構成単位として位置づけた。彼は停戦協定に強く反対した。一方、東スラヴォニア側は停戦協定に賛成し、最終的にバビッチ大統領の意思を無視するかたちで「クライナ・セルビア人共和国」は停戦協定に同意したのである。

「大セルビア構想」を解説するボード、ドブロヴニクにある「クロアチア紛争博物館」から
「大セルビア構想」を解説するボード、ドブロヴニクにある「クロアチア紛争博物館」から(著者提供)

また、停戦協定で決定したUNPROFORの派遣はあくまでも期限付きであり、1994年頃から展開期間の再延長をめぐって、「クライナ・セルビア人共和国」とセルビアのミロシェビッチとの間で対立が生じた。「クライナ・セルビア人共和国」はUNPROFOR撤退後にセルビアからの軍事支援を求めたが、ミロシェビッチは支援を拒否。クロアチアとの交渉にも介入しない意向を示した。ミロシェビッチは本国の利益を考慮し、事実上「クライナ・セルビア共和国」を見捨てたといえる。
クロアチアはUNPROFORの展開期間の再延長に反対し、あくまでも「国土統一」を最終的目標に据えた。1995年5月、首都ザグレブと東部を結ぶ交通インフラの安全を確保するという名目でクロアチアは「クライナ・セルビア人共和国」を攻撃し(「稲妻作戦」)、一部が陥落した。国際社会からの批判はあったが、クロアチアは意に介さなかった。一方、「クライナ・セルビア共和国」指導部の間では、クロアチアからの攻撃の責任をめぐり、内紛が勃発。事実上の二重権力状態に陥る深刻な事態となった。

未承認国家は見捨てられて崩壊へ

そして1995年8月、クロアチアは「クライナ・セルビア共和国」に対する軍事作戦「嵐作戦」を決行し、「クライナ・セルビア共和国」領の大半はクロアチアの統治下に戻った。その結果、「クライナ・セルビア人共和国」は消滅した。「クライナ・セルビア人共和国」が有していた東スラヴォニア地方は国連の暫定統治機構の管理下に置かれ、1998年にクロアチアに返還された。クロアチアは、「クライナ・セルビア人共和国」の成立から7年後に国土統一を果たしたのである。
しかしクロアチアの「嵐作戦」により、多くのセルビア系住民は辛酸をなめた。多くの民間人が亡くなったことは言うに及ばず、家屋が破壊を免れた場合でもクロアチア軍兵士や警察からの嫌がらせなどにより、放棄せざるを得なかった。放棄した建築資材などは、クロアチア当局が接収したのである。また、この「嵐作戦」にはアメリカの民間企業がサポートしていたことも付け加えておきたい。

クロアチアにおける未承認国家の歴史を振り返ったが、現在のウクライナとの最も異なる点はなんだろうか。やはり国の規模、セルビアとロシアとの違いになるだろう。セルビアのミロシェビッチ大統領もロシアのプーチン大統領も本国の指導者であると同時に、周辺諸国に住むセルビア人、ロシア人の「保護者」として振る舞った、もしくは振る舞っている。しかし、セルビアは経済制裁などにより苦境に陥り、クロアチアだけでなくボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人共和国も事実上見捨てることになった。
一方、ロシアは体力があるのか、まだまだ未承認国家を見捨てることはなさそうである。しかし、いつかプーチンが未承認国家を見捨てるという噂でも流れれば……?住民は安心してその地に住み続け、獲得した地を守りつづけようとするだろうか。

参考文献
大量虐殺の社会史』松村高夫、矢野久(ミネルヴァ書房 2007年)
ユーゴ内戦 政治リーダーと民族主義』月村太郎(東京大学出版会 2006年)
未承認国家と覇権なき世界』廣瀬陽子(NHK出版 2014年)
クロアチアを知るための60章』柴宜弘、石田信一(明石書店 2013年)

資料1(旧ユーゴを構成していた共和国)
旧ユーゴ連邦
スロベニア社会主義共和国(1991年独立)
クロアチア社会主義共和国(1991年独立)
セルビア社会主義共和国(1992年モンテネグロと共に新ユーゴを成立)
ヴォイヴォディナ社会主義自治州
コソボ社会主義自治州
ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国(1992年独立)
モンテネグロ社会主義共和国(1992年セルビアと共に新ユーゴを成立)
マケドニア社会主義共和国(1991年独立)

資料2(クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナの未承認国家)
クロアチア
クライナ・セルビア人共和国(セルビア人)1991年~1995年
ボスニア・ヘルツェゴビナ
スルプスカ共和国(セルビア人)1992年~(現在はボスニアを構成する構成体のひとつ)
ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国(クロアチア人)1992年~1994年