栽培化・家畜化するとはなにか
ジェームズ・C・スコットは、ドメスティケーション(栽培化・家畜化)とは、生物がドムスに適応して定着し、ドムス生物化することだといえるのではないかと提案している。そもそもラテン語の「ドムス」は英語のdomesticの語源であり、それを動詞化したdomesticateは「~を栽培化/家畜化する」という意味になる。したがって、ドメスティケーション=ドムス生物化と考えることは、言語的にはごく自然である。しかしながら、ドメスティケーションの研究において、このような捉え方はオーソドックスなものではなかった。
通常の意味でのドメスティケーションとは、人間が対象生物の繁殖に介入して、その形質を人間にとって好ましいものに改変していくプロセスである。そのときドメスティケーションの主体として想定されているのはあくまで人間であることから、この捉え方を「単一主体モデル」と名づけることができる。
他方、異なる生物種間にみられる相利共生の一つの型としてドメスティケーションを捉えることもできる。その場合、人間が意図していようといまいと結果として共生関係が成立していればよく、したがってドメスティケートする側/される側という主客関係は消失するか、二次的なものだとみなされる。共生という「関係」が強調されることから、この捉え方を「関係論モデル」と名づけることができる。
しかし、これら二つのモデルではドメスティケーションの全貌を把握するには不十分であると私は考えている。単一主体モデルはドメスティケーションの最終局面に近いほど(たとえば品種改良)よくあてはまるし、関係論モデルはドメスティケーションの開始局面に近いほど(たとえば人里植物の利用)よくあてはまる。しかし、それぞれ得意とする局面を外れるとあまり有効ではないように思われる。ドムスという中間的な領域における人間と他種生物の関係を記述するためには、二つのモデルを継ぎ接ぎしなければならないが、それも不格好である。
そこで私が提案するのが「双主体モデル」である。単一主体モデルのようにドメスティケートする主体をあらかじめ限定するのではなく、関係論モデルのようにドメスティケートする主体を抹消するのでもなく、焦点化された生物の双方にドメスティケート主体となる可能性を認めるのである。こうして上記二つのモデルを特殊状況における近似として包含しつつ、ドメスティケーションの全貌を視野にいれた記述と分析を目指すのが、双主体モデルである。