安岡宏和

安岡宏和

厩舎で餌を食べる牛たち。

(写真:Studio Romantic / shutterstock

多種多様な生物との関係のなかで、人間なるものを再考する

テクノロジーによる人間の能力拡張が進んでいる。しかし、外部に接続(関係)することによって、その行動や機能を拡張するということははるか古代から行われてきたのである。ドメスティケーション(栽培化・家畜化)を紐解き、ヒトと他生物との関係を考えてみよう。

Updated by Hirokazu Yasuoka on March, 24, 2023, 5:00 am JST

栽培化・家畜化するとはなにか

ジェームズ・C・スコットは、ドメスティケーション(栽培化・家畜化)とは、生物がドムスに適応して定着し、ドムス生物化することだといえるのではないかと提案している。そもそもラテン語の「ドムス」は英語のdomesticの語源であり、それを動詞化したdomesticateは「~を栽培化/家畜化する」という意味になる。したがって、ドメスティケーション=ドムス生物化と考えることは、言語的にはごく自然である。しかしながら、ドメスティケーションの研究において、このような捉え方はオーソドックスなものではなかった。

通常の意味でのドメスティケーションとは、人間が対象生物の繁殖に介入して、その形質を人間にとって好ましいものに改変していくプロセスである。そのときドメスティケーションの主体として想定されているのはあくまで人間であることから、この捉え方を「単一主体モデル」と名づけることができる。

他方、異なる生物種間にみられる相利共生の一つの型としてドメスティケーションを捉えることもできる。その場合、人間が意図していようといまいと結果として共生関係が成立していればよく、したがってドメスティケートする側/される側という主客関係は消失するか、二次的なものだとみなされる。共生という「関係」が強調されることから、この捉え方を「関係論モデル」と名づけることができる。

八ヶ岳の高原野菜の畑
八ヶ岳の高原野菜の畑。

しかし、これら二つのモデルではドメスティケーションの全貌を把握するには不十分であると私は考えている。単一主体モデルはドメスティケーションの最終局面に近いほど(たとえば品種改良)よくあてはまるし、関係論モデルはドメスティケーションの開始局面に近いほど(たとえば人里植物の利用)よくあてはまる。しかし、それぞれ得意とする局面を外れるとあまり有効ではないように思われる。ドムスという中間的な領域における人間と他種生物の関係を記述するためには、二つのモデルを継ぎ接ぎしなければならないが、それも不格好である。

そこで私が提案するのが「双主体モデル」である。単一主体モデルのようにドメスティケートする主体をあらかじめ限定するのではなく、関係論モデルのようにドメスティケートする主体を抹消するのでもなく、焦点化された生物の双方にドメスティケート主体となる可能性を認めるのである。こうして上記二つのモデルを特殊状況における近似として包含しつつ、ドメスティケーションの全貌を視野にいれた記述と分析を目指すのが、双主体モデルである。

人間は、さまざまな生物をドムスに囲い込んできた

どのモデルに依拠するかによって「ドメスティケートする」という行為の意味は異なってくる。では双主体モデルにおいて、ドメスティケート主体はどのような行為をするのだろうか。

ドメスティケーションの一つの到達点として、植物工場で栽培されているトマトを想像してみよう。工場トマトは外部との関係をほぼ遮断され、生存と再生産のすべてを人間に依存して生きている。それでは、野生トマトから工場トマトに変化する過程で、人間は何をしてきたのだろうか。

まず確認しておくべきことは、野生トマトは、捕食者、種子散布者、競争相手、共生相手といった多種多様な生物たちとの関係のなかで生き、世代をつないでいる点である。そのとき人間が野生トマトを採集するとしても、あくまでトマトに関係する多様な生物の一種でしかない。

トマトはメキシコで栽培化されたと考えられるが、その詳細はわかっていない。ただ、おおよその筋書きを想像することはできる。人々が野生トマトを採集し、集落にもちかえる。それを食べるとき、傷んでいるものを捨てたり、種だけを吐き出したりするだろう。集落周辺でその一部が発芽し、生長する。人々は大きく美味しそうな野生トマトを選んで採集するので、集落周辺のトマトの一群では、しだいに大きく美味しいトマトの比率が多くなってくる。そして人々は、そういったトマトの種子を、よく育ちそうな場所を選んで播くようになる、といったところだろうか。

そこから工場トマトにいたる道のりの中間に、畑で栽培されるトマトが位置づけられるだろう。畑には多種多様な生物が出入りして、トマトと関係している。その一方で、人間が、トマトを捕食者から守り、競争相手を排除し、共生相手を補助し、種子を播く。さらに、トマトがよく生長するように、水や養分をあたえる環境を整備する。つまり畑では、人間とトマトの関係が、他種生物とトマトの関係を圧倒しており、その条件のもとでトマトは生き、世代をつないでいるのである。そして工場トマトにいたって、環境の大部分が人為的に構築されたものになり、第三の生物の関与はおおかた排除されるようになる。

ドメスティケート主体がおこなっている行為とは、このように、対象生物の生きる環境を構築しながら、自らにたいする依存度が増大するように対象生物と第三の生物たちとの関係をコントロールすることだといえる。その積み重ねをとおして、対象生物にかかる選択圧がドメスティケート主体に由来するものに集約されて、ドメスティケート主体にとって好ましい形質が対象生物の個体群に普及していく。最終的に、ドメスティケート主体との関係なしには生存・再生産がままならない状態になったとき、その生物個体群は完全にドメスティケートされたことになる。

人間は栽培することで、植物に依存させられてもきた

ところで、双主体モデルは、人間と対になる生物もドメスティケート主体となりうることを想定する。であれば、上述の行為を人間以外の生物がおこなうことはできるのだろうか。そんなことは不可能だ、と思われるかもしれない。しかし下記に示すように「行為主体」の意味する範囲をすこし拡張するだけで、人間以外の生物をドメスティケート主体とみなすことが可能になる。

ある人間集団が特定の植物(たとえばイネ)に強く依存した生活を営んでいるとしよう。そこにいたる過程で生じたことは、人間による植物の改変だけではない。植物の性質に応じて、栽培技術が開発され、労働が組織化され、農地所有が制度化され、農耕儀礼が発達し、作物市場が形成されてきたはずである。人間の依存が一定程度に達すると、その植物と人間のあいだにすでに構築されている関係になじむかどうかが、他の栽培植物や家畜の導入・維持・除外を左右する要件になっただろう。また、人間集団をとりまく諸制度は、随時、その植物との関係を強化する方向で再編されてきたと考えられる。そうして人間はその植物にますます依存することになる。ある種の生物は、このようにして自らにたいする人間の依存度を高めることに成功してきたのである。

むろん、ふつうの日本語の意味で「行為した」のは人間である。しかし、その生物の存在なしにはなされなかったはずの行為を人間がするとき、その生物は人間と結びついて主体性を発揮しているのだと考えるのは特段おかしなことではない。たとえば、ある種のウイルスに感染した人間は咳をする。そのとき咳をしたのは人間だが、ウイルスこそが人間をして咳をさせたのだ。このように狭い意味で「行為した」のではなくても、行為の生起に直接関与するものを行為主体と認めるなら、人間以外の生物もドメスティケート主体になりうるのである(むろん「直接」の「関与」とは何であるかついては議論の余地があるが、ここでは深入りしない)。

つまり、人間はさまざまな生物をドメスティケートしてきただけでなく、同時に、それらの生物によってドメスティケートされてきたのである。この観点から人類史を見渡したとき、むしろ特筆すべきなのは、人間の卓越した「ドメスティケートされやすさ」だといえる。人間は、さまざまな生物とのあいだに、あるいは他の人間集団とのあいだに構築している諸関係を柔軟に変化させることが得意である。だからこそ、特定の人間集団が特定の生物との結びつきを強めていき、結果として相互依存が高度に発達することがある。稲作農民とイネ、ウシ牧畜民とウシのような(絶対的相利共生とまではいかなくとも)かなり高度な相互依存が、生物進化の時間軸でみればごく短期間に構築されえたのは、人間の、相方生物をドメスティケート主体ならしめる能力に秀でている点にこそ、その要因があったというべきだろう。

多種多様な生物との関係のなかから主体がたちあらわれてくる

以上が双主体モデルの骨子である。最後に、骨子に肉づけしていくなかで現れてくるものもふくめて、その特徴を列挙しておこう。

第一に、双主体モデルはドメスティケーションを双方向的に捉える。強調しておきたいのは「人間はコムギを栽培化したと思われているが、見方を変えればコムギが人間を家畜化したことになるのだ」といったふうな、視線の反転を主張しているのではないという点である。それは人間と対象生物を置換した単一主体モデルにすぎない。双主体モデルは、二種の生物が、それぞれ同時にドメスティケートの主体であり対象でもありうる点に、その特徴がある。

第二に、双主体モデルは多種生物間の関係を把握する。焦点化された二種に視野を限定することなく、つねに多種多様な生物からなる諸関係のなかに二種を埋め込んで捉えようとする。なぜなら、定義上、一方が他方の諸関係に介入することがドメスティケートする行為そのものであり、双方が第三の生物たちとどのような関係を構築しているかはドメスティケーションの進行を左右するからである。また、必要と労力におうじて、三種の生物を焦点化することも可能だろう。

第三に、双主体モデルは行為主体の「ハイブリッド」を認識する。双方がドメスティケートの主体かつ対象である関係が深化していくと、ついには二種が合一した行為主体とみなせるようになるだろう。「イネ人間」や「ウシ人間」というと特撮モノを連想してしまうが、生態人類学における「農耕民」や「牧畜民」といった表現は、人間と相方生物のハイブリッドとしての行為主体について言及しているのだと解釈するならば、むしろなじみのある考え方ともいえる。

ススキ
風に揺れるススキ。

第四に、双主体モデルは非生物を動員する。工場トマトの例では、最終的に人間とトマトの二種関係に純化するようにみえるが、じつはそうではない。第三の生物たちの排除と対応して、工場トマトの生存と再生産のために、光・熱・水・養分の供給をつかさどる機材が配置され、種子生産のシステムが構築され、それらのためのインフラが整備される。ドメスティケーションは、非生物的環境を構築しながら、多種多様な生物との関係を人工的なモノとの関係に置換していくという側面をもっている。

第五に、双主体モデルは人間を焦点から外すことができる。キノコを栽培するアリや、アブラムシを飼育するアリがいるように、そもそもドメスティケーションは人間に限定されるものではない。とはいえ、人間を焦点化しない場合でも、すぐさま「人間のいない世界」に視野を閉じてしまうのは拙速かもしれない。ダーウィンは人為的な品種改良に着想を得て進化論を構想したのであったことを思いおこすならば、双主体モデルが、種間関係一般をより深く理解することに貢献するかもしれないからである。

一連の小論では、狩猟採集民の〈生き方〉としての、アンチ・ドムスについて考察することを目的としているが、今回は考察のための理論的準備で紙幅が尽きてしまった。なお、双主体モデルは、生態人類学の理論と実践の再編を目論みつつ、アクターネットワーク理論やマルチスピーシーズ研究をドメスティケーション向けにチューンアップして構想したものである。それらに興味のある方は参考文献をご覧いただきたい。

次回は、双主体モデルを携えて、ふたたびバカ・ピグミーとヤマノイモの関係に目を転じ、アンチ・ドムスについての考察を展開していきたい。

参考文献
『ドメスティケーション:その民族生物学的研究』 山本紀夫 編(人間文化研究機構国立民族学博物館 2009年)
反穀物の人類史:国家誕生のディープヒストリー』ジェームズ・C・スコット(みすず書房 2019年)
ブルーノ・ラトゥールの取説:アクターネットワーク論から存在様態探求へ』久保明教(月曜社 2019年)
野生性と人類の論理:ポスト・ドメスティケーションを捉える4つの思考』卯田宗平 編(東京大学出版会 2021年)
食う、食われる、食いあう:マルチスピーシーズ民族誌の思考』近藤祉秋・吉田真理子 編(青土社 2021年)
アクターネットワーク理論入門:「モノ」であふれる世界の記述法』栗原亘 編(ナカニシヤ出版 2022年)
モア・ザン・ヒューマン:マルチスピーシーズ人類学と環境人文学』奥野克巳・近藤祉秋・ナターシャ・ファイン編(以文社  2021年)