家族からも自由になりつつある現代人。ただし弱ってくるとそうとも言っていられない
人類や社会の進歩とは何だろう。それは所与のもの、例えば人種、家柄や階級、家族、性別といった生まれた時点で決められているものから、自由になる過程といえるかもしれない。逆に、人間が自由だというのは思い上がりで、所与のものを受け入れて生きていくべきだという意見もあるだろう。
では次の発言はどう思われるだろうか?
① (バスで)「この椅子は白人用です。あなたは黄色人種だから座ってはいけません」
② 「あなたは卑しい家の出身だからうちの娘と結婚はさせられません」
③ 「息子が不祥事を起こしたら、たとえ成人していても親が出てきて謝るべきです」
④ 「心が女性だなんていっても男なんだから男らしくしなさい」
現代に生きる日本人は①②は悪しき因習と思うが、③④の意見は割れるのではないか。
本稿は、精神科医が臨床経験から「人間は自由」という建前が現場では実現されていないのではないかと感じたことを「家族」という切り口で述べるものである。
まず家族の形が大きく変貌していることを押さえておこう。世帯 の形を見てみると、かつては3世代同居(サザエさんの家のイメージだ)が主流であったのが核家族化している。統計によれば、高齢者のいる世帯の6割が、高齢者一人暮らしか高齢夫婦二人暮らしなのである。赤ちゃんを祖父母がみるとか、老親を在宅介護するというのがもはやファンタジーになりつつある(良いとか悪いとか言っているのではなく、現実を淡々と述べている)。
我々は家族からも自由になりつつあるように思える。持ちたければ持てばよいし、一人で生きていくこともできる。ところが、平時は良いが、緊急時は、あるいは弱ってくると家族が重大になり、いるかどうかで運命が変わる。
では、どんな時に運命が変わるのかを挙げていこう。
家族がいれば医療保護入院、いないときは宙ぶらりん
第一は精神科救急医療の現場である。例えば、一人暮らしの高齢者が夜間に山道を歩いていて警察に保護されたとする。本人は「畑に行くだけだ」と言っている。すったもんだの末、精神科病院に連れてこられたとしよう。
1)近くに住む子供がすぐにやってきて、事故になる前に入院させてほしいといった場合の話は簡単だ。「医療保護入院」になる。
2)家族はいるものの不仲で、連絡を取ろうとしても電話に出ない場合は大変だ。医療保護入院のためには家族等の同意が必要だが、連絡が取れない場合、入院ができない(72時間の応急入院は可能だが、特別な病院でなければ対応できない)。自傷他害の恐れがあれば措置入院になっていただろうが、自傷他害の恐れが切迫していない場合、例えば本人はすっかり落ち着いた老紳士に戻っており「大変失礼いたしました、今度はないようにしますので、帰宅させてください」などと言う場合は、措置入院は不可能である。つまり宙ぶらりんの状態に陥る。
3)天涯孤独で家族がいない場合は、市町村長の同意による医療保護入院が可能である。ただし首長によっては同意しないところもある。その場合も宙ぶらりんの状態だ。
やみくもに精神科に入院させることを避けるためにこういう制度になっているからとはいえ、家族の有無でフローが異なるのだ。これは公平といえるだろうか? 性的虐待が疑われる未成年が受診した場合などはなお複雑で、虐待を加えている家族に意思決定が委ねられないようにしなければならない。
誰が治療の続行を決めるのか、退院後の身元保証書は、死後の手続きは……?
第二は救急救命の現場である。例えば、脳梗塞で瀕死の状態のときに侵襲的先端的医療を行うかどうかの判断は誰がするのか。あるいは「もう静かに旅立たせてやれよ」と誰が言えるのか。家族がいる場合は、現場では通例に沿って家族が決めている。家族がいない場合は、成年後見人がいたとしても医療同意はできないというのが通説である。このような場合は、みんなで話しあう(和をもって尊しとなす)というのが我が国のやり方だが、ACPは実際にはあまり機能するはずもないので(だって想定外のことが起こるのがこの世の常でしょうから)、現実的で実際的かもしれない。
第三は通常の医療現場である。例えば身寄りのない、判断力のしっかりとした高齢がん患者が予定入院する場合、現実には緊急連絡先、支払い代行、退院や転院に関すること、入院治療計画書への同意、必要物品の購入、医療同意書への署名、そして遺体の引き取り手などのために「身元保証」を求められる。それまで自由を謳歌してきた人は、入院するときに自分が不自由であることに気が付かされるのである。「え、同意能力があるのに」と思うかもしれないが、術後せん妄(手術の前はしっかりしていたのに、手術の後数日は前後不覚になる)は高い確率で起きる。例えば突如、一見すると冷静に「私はもう退院しますよ、不愉快だ」などと言いだす場合もある。しかし現実的には身体にはドレーン(例えば臓器から直接出血などを体外に排出する管。これを引き抜いたら死ぬだろう)などが入っていたりする。止めると、人権侵害だといわれる。患者が一見冷静である分、スタッフの精神的疲弊は大きい。このような現実的な事情から、医療現場では包括的な「身元保証」を求めている面もあるのだろう。
第四は死後のことである。家族がいない場合、葬儀、納骨、死亡通知、遺品の整理、様々な手続き(年金、電気、ガス、水道、家賃等)は誰がすればよいのだろうか?すでに先駆的な横須賀市は終末期の意志決定から葬儀までを支援する「エンディングプラン・サポート事業」を開始している。また、血縁によらない葬送を支援するNPO法人などの試みもある。いずれにしても、家族がいる場合は家族に一任できる一方で、家族がいない人は自分の死について態度表明や契約を求められることになる。
家族がいない人はどうしているのか?
最後に希望を語ろう。筆者が関わるホームレス支援団体には、事情があって家族・故郷と縁が切れている方が多い。無縁・孤立・独居の高齢者が生活破たんし、路上を経るなどして団体にたどり着く。あるいは刑務所から出たが行き場のない人もいる。
聞き取りをすると、暴力に支配され、父から子へ血は継承されず、家系図は複雑怪奇で、さまざまな課題を持つ人が多い家族のもとで生を受けた方も多い。彼らにとって家族とは恐ろしいものかもしれない。団体の運営する共同居住の中では多くのトラブルがあるが、そこでは「トラブルミーティング」として関係者を集め、問題を生活歴まで掘り下げて語り合うのだ。お互いの過去を涙ながらに語ることで仲間となり、役割を見出し、互助関係を作る。家族はいないが、彼らは人生の最終段階でつながりを回復する。居住・生活支援については、団体が包括的に行う。医療における支払いや処遇に関しては、生活保護のケースワーカーが行う。末期がんの人の終末期には、往診医の支援を得て共同居住の仲間でお世話をしてお看取りをすることもある。そして死後には無宗教の偲ぶ会を行っている。
家族は素晴らしいものだが、事情があって家族がいない人もいることに想像力を働かせたい。家族のもとで苦しみ続け、家族から逃れた先の路上の果てで、希望を見出す人もいるのだ。
考えてみれば「カラマーゾフの兄弟」も「ゴッドファーザー」も、そして「新世紀エヴァンゲリオン」も壮大な家族の物語ではないか。イエスキリストは普通の家族とは違う形で生まれているし(処女懐胎)、仏陀は出家する前に家族を捨てている。家族は素晴らしいものだが頭痛の種でもある。
精神科の外来でも、人間関係の悩みは大体が家族の悩みに収斂する。ものすごく病的な家族の中で苦しんでいる人もいるし、はたから見ると普通の家族の中でやはり苦しんでいる人もいる。古くて新しい問題だが、ヒトがヒトから生まれてくる以上、「しばらくは」この問題は続くだろう。ヒトがヒトから生まれない時代が来たら、この問題は解決するのだろうか?あるいは形を変えて連綿と続くのだろうか?
我々の研究室では家族介護者の研究をしている。家族介護とは、長い長い関係性の果てに、旅立つ、弱っていく人を、支えるということであり、心理的葛藤がとても大きい。家族とは何だろうか、という疑問を持ちながら年末年始に研究インタビューのためにフィールドを彷徨いながら考えたことを書いた。興味深い研究成果が得られたが、それはまたどこかで書ければ幸いだ。