岡村 毅

岡村 毅

(写真:AnnGaysorn / shutterstock

運命の分かれ道――医療の現場では家族がいるかどうかで運命が異なる

DXによってこれからも社会はあらゆることがスマートになっていくだろう。しかし、精神医療の現場では簡単には割り切れない事象であふれている。現代のシステムはその結論を「家族」に委ねることが多いようだ。では身寄りがない人々はどうしているのだろうか――。現場の声を紹介する。

Updated by Tsuyoshi Okamura on April, 7, 2023, 5:00 am JST

家族がいれば医療保護入院、いないときは宙ぶらりん

第一は精神科救急医療の現場である。例えば、一人暮らしの高齢者が夜間に山道を歩いていて警察に保護されたとする。本人は「畑に行くだけだ」と言っている。すったもんだの末、精神科病院に連れてこられたとしよう。

1)近くに住む子供がすぐにやってきて、事故になる前に入院させてほしいといった場合の話は簡単だ。「医療保護入院」になる。

2)家族はいるものの不仲で、連絡を取ろうとしても電話に出ない場合は大変だ。医療保護入院のためには家族等の同意が必要だが、連絡が取れない場合、入院ができない(72時間の応急入院は可能だが、特別な病院でなければ対応できない)。自傷他害の恐れがあれば措置入院になっていただろうが、自傷他害の恐れが切迫していない場合、例えば本人はすっかり落ち着いた老紳士に戻っており「大変失礼いたしました、今度はないようにしますので、帰宅させてください」などと言う場合は、措置入院は不可能である。つまり宙ぶらりんの状態に陥る。

3)天涯孤独で家族がいない場合は、市町村長の同意による医療保護入院が可能である。ただし首長によっては同意しないところもある。その場合も宙ぶらりんの状態だ。

やみくもに精神科に入院させることを避けるためにこういう制度になっているからとはいえ、家族の有無でフローが異なるのだ。これは公平といえるだろうか? 性的虐待が疑われる未成年が受診した場合などはなお複雑で、虐待を加えている家族に意思決定が委ねられないようにしなければならない。

誰が治療の続行を決めるのか、退院後の身元保証書は、死後の手続きは……?

第二は救急救命の現場である。例えば、脳梗塞で瀕死の状態のときに侵襲的先端的医療を行うかどうかの判断は誰がするのか。あるいは「もう静かに旅立たせてやれよ」と誰が言えるのか。家族がいる場合は、現場では通例に沿って家族が決めている。家族がいない場合は、成年後見人がいたとしても医療同意はできないというのが通説である。このような場合は、みんなで話しあう(和をもって尊しとなす)というのが我が国のやり方だが、ACPは実際にはあまり機能するはずもないので(だって想定外のことが起こるのがこの世の常でしょうから)、現実的で実際的かもしれない。

第三は通常の医療現場である。例えば身寄りのない、判断力のしっかりとした高齢がん患者が予定入院する場合、現実には緊急連絡先、支払い代行、退院や転院に関すること、入院治療計画書への同意、必要物品の購入、医療同意書への署名、そして遺体の引き取り手などのために「身元保証」を求められる。それまで自由を謳歌してきた人は、入院するときに自分が不自由であることに気が付かされるのである。「え、同意能力があるのに」と思うかもしれないが、術後せん妄(手術の前はしっかりしていたのに、手術の後数日は前後不覚になる)は高い確率で起きる。例えば突如、一見すると冷静に「私はもう退院しますよ、不愉快だ」などと言いだす場合もある。しかし現実的には身体にはドレーン(例えば臓器から直接出血などを体外に排出する管。これを引き抜いたら死ぬだろう)などが入っていたりする。止めると、人権侵害だといわれる。患者が一見冷静である分、スタッフの精神的疲弊は大きい。このような現実的な事情から、医療現場では包括的な「身元保証」を求めている面もあるのだろう。

第四は死後のことである。家族がいない場合、葬儀、納骨、死亡通知、遺品の整理、様々な手続き(年金、電気、ガス、水道、家賃等)は誰がすればよいのだろうか?すでに先駆的な横須賀市は終末期の意志決定から葬儀までを支援する「エンディングプラン・サポート事業」を開始している。また、血縁によらない葬送を支援するNPO法人などの試みもある。いずれにしても、家族がいる場合は家族に一任できる一方で、家族がいない人は自分の死について態度表明や契約を求められることになる。