井山弘幸

井山弘幸

Heelmeester|1695

(写真:アムステルダム国立美術館 / Rijksmuseum Amsterdam

エセ治療を廃止するために必要な「不在データ」

物事を検討するためにデータを参照することは、今や当たり前の所作である。しかし「テキスト」が最も重要であった時代にはそうではなかった。そして、データを無視することは人類に多大な損失をもたらしてきたのである……。

Updated by Hiroyuki Iyama on October, 6, 2023, 5:00 am JST

モーツァルトが死のうが、大統領が死のうが効果のない治療は続けられた

人類が長く盲信し、多大な損失をもたらしてきた「医療」に瀉血がある。瀉血とは、人体の血液を外部に排出させることで、症状の改善を得るための治療法の一つである。古くは中世ヨーロッパ、さらに近代のヨーロッパやアメリカ合衆国の医師たちに熱心に信じられ、さかんに行われていた。とくに肺炎で苦しむ患者からは大量の血液が「治療」という名目で失われた。誰しも震え上がるような危険な治療だと思われるかもしれないが、医聖のテキストにある体液病理学説に裏づけられた正統な治療であった。

例えば、1791年、病床のモーツァルトは、匿名のパトロンから鎮魂曲(レクイエム)の作曲を依頼された。しかし35歳のモーツァルトは貧血や頭痛の症状に悩まされ、やがて、激しい嘔吐発作、下痢、関節炎、手足のむくみのため昏睡状態になり、とうとう2Lの瀉血を受けたと義妹ゾフィーが書いている。そして翌日落命した。もちろんモーツァルトの才能を妬んだサリエリが毒を盛ったからではない。依頼された鎮魂曲はその後ジュースマイヤーが補筆して完成させた。

その8年後の1799年に同じような悲劇が起こる。前大統領ジョージ・ワシントンは、農園での仕事後、喉の痛みに襲われ、呼吸困難に陥る。主治医が喉に発庖膏を塗り、酢と水の吸入を行ない、酢とセージ茶でうがいをして更に浣腸をしたうえで、瀉血を三度も行なった。最後は約1リットルの血液を奪った。これらの処置にもかかわらず、と言うか、この致命的な処置のおかげで二日後に逝去した。人間の血液の総量は約5ℓだから二人の瀉血量は30~40%で、もう殆ど出血多量で死ぬか、少なくとも血圧低下と意識喪失は免れず瀕死状態に拍車をかけたことは間違いない。ワシントンの場合は元大統領だから約240年前とは言え最高の医師の診療を受けていたはずだ。抗生物質ペニシリンの開発、使用は約150年先のことだ。

千年以上続いた瀉血の治療の無効性(と言うか致死性)はどのようにして証明されたのか?何しろ大量に血を抜くわけだから、栄養が奪われることは確かである。瀉血後の死亡報告があるのにそのことが問題視されなかった理由の一つに、もともと重度の肺炎など重篤な状態の患者に瀉血が施される場合が多かった、という事情もある。むしろ瀉血によって死期を先延ばしできた、と解釈されることもあった。当時は医学的には正統な治療だったからだ。予防や健康維持のために行われる瀉血では上腕部の切開で、消毒が不完全で感染症を引き起こすこともあっただろうけれど、そもそも感染理論が一般的になるのは19世紀末のことなのだ。北里柴三郎や鷗外がベルリン大学のコッホのもとで研鑽を積んだ時代までは、不衛生なメスで雑菌が血管に混入することの危険を考えた者は皆無であった。

瀉血の無効性を証明した「不在データ」

瀉血の無効性の証明に必要な「不在データ」は誰もが思いつくものだ。「もし瀉血をしなかったら死なないで済んだのか?」これが分かっていれば、とうの昔に瀉血治療は廃れていたことだろう。

有効な「不在データ」を明るみに出し、瀉血の無効性というよりは有害性を、臨床データの比較対照をもとに最初に訴えたのは、フランスの医師ピエール=シャルル・アレクサンドル・ルイ(Pierre-Charles Alexandre Louis,1787-1872)である。ルイは医学の研究に統計データを導入することによって、結核や腸チフスの治療に当時広く行われた瀉血法が効果のないことを示した。彼は1820年以降パリのオテル・ディユー病院とピチエ病院で働いていて、臨床病理と剖検記録をもとに、それまでほとんど研究に使われなかった臨床記録に着目したのである。1835年の著書『瀉血の炎症性疾患に対する効果に関する研究』Recherches sur les effets de la saignée dan quelques maladies inflammatoires,で、瀉血の有害性を明らかにするだけでなく、数値的分析(analyse numérique)の必要性を訴えた。二百年前の西欧の医学界では、患者の症状、病変の程度、治療の効果を記述する際に「多くは」とか「しばしば」「稀に」と言った曖昧な表現が横行し、治療の評価が困難であったとし、瀉血の量と回数を正確に記録することにより、瀉血量の少ない患者と多い患者の予後を比較することができたのである。瀉血の量が多いほど死亡のリスクが下がることを示すデータはなかった。これがルイの得た「不在データ」であった。勿論これで瀉血の慣行がなくなったわけではなく、下火になるまで半世紀の歳月が流れる。