井山弘幸

井山弘幸

Heelmeester|1695

(写真:アムステルダム国立美術館 / Rijksmuseum Amsterdam

エセ治療を廃止するために必要な「不在データ」

物事を検討するためにデータを参照することは、今や当たり前の所作である。しかし「テキスト」が最も重要であった時代にはそうではなかった。そして、データを無視することは人類に多大な損失をもたらしてきたのである……。

Updated by Hiroyuki Iyama on October, 6, 2023, 5:00 am JST

問題解決のためには、不在データにも目をむけ、仮説を立てること

ルイによる医療統計の導入は今からすれば常識の範疇に入るだろう。だが19世紀後半になってもパリの医師会と化学者パストゥールがワクチンの使用をめぐって対立したように、対照実験を用いた統計分析は伝統的医学にはなじまないものであった。伝統的医学と科学という(医学からみれば)新興の学問との込み入った関係は、現在においても「医学はサイエンスか?」と問われることがあるように、存続しているのである。

テキストがお墨付きを与える治療法の一つである瀉血が、効果がないどころか有害であることが分かったとしても、そのことだけで喜んではいられない。モーツァルトやワシントンは、仮に瀉血を施さなかったとして、他にどのような処置が可能だったのか?統計分析はそれだけでは代替の方法を教えてくれない。

IoTシステムを新たに構築したときも、欠乏症の発見からビタミン投与の治療を見出したときも(「データは「ない」ことによって、大きな価値を生む」を参照されたい)、そこには新たな仮説が考案されていたことを銘記すべきである。仮説とは hypothesis を翻訳した言葉だけれど、もとのギリシア語の意味は「下に(hypo-)置く(thesis)」で「(思考や議論の)基礎や土台」のことだから、原義にはどこにも「仮の」というニュアンスはない。この訳語が与える信憑性に欠ける印象を忘れて「データを理解する基礎となる考え方」のことを「仮説」ということにしよう。いついかなる時も、その場に見合う可能な仮説を考えることは有意義だと思う。ふだんから眠っている「不在データ」にまず眼を向けることから始めてみたらどうだろうか。

参考文献
解剖学論集』ガレノス  坂井建雄、池田黎太郎、澤井直訳(京都大学学術出版会 2011年)
『世にも危険な医療の世界史』リディア・ケイン、ネイト・ピーダーセン 福井久美子訳(文藝春秋 2019年)