仲俣暁生

仲俣暁生

真夏の北極の海に浮かぶ、50m以上高さのある氷山。底は海底についている。3、4年はここにあったと言われている。周辺は静かでただ風の音がするだけ。氷河が動くと氷が割れてガラスが落ちるような音がカラーンと響く。

(写真:佐藤秀明

現代の「キャリバン」たちへ

知性の人・橋本治の思索はあらゆるジャンルにおいて未来のヒントを与えてくれる。長年にわたり橋本治の書物を読み続けてきた文筆家の仲俣暁生氏が、作品や論考からその史跡をたどり新たな知へと結びつけていく。

Updated by Akio Nakamata on January, 24, 2022, 0:05 pm JST

新たなる「啓蒙」を求めた先の独学ブーム

だが『浮上せよと活字は言う』で展開された橋本の「声」は、1990年代の出版界には聞き入れられなかった。中央公論社はその後まもなく経営危機に陥り、1999年に読売新聞社に営業譲渡され中央公論新社となる。2000年以後のインターネットの急速な発展によって雑誌広告のビジネスモデルが崩壊した出版界は、いまや書物という母屋までが傾き始めている。だからこそ、いまこの本は読まれるべきなのだ。

『浮上せよと活字は言う』は、ピーター・グリーナウェイ監督による映画『プロスペローの本』の意味を深く理解するために、その原作であるシェイクスピアの『テンペスト』を読んだ橋本自身の体験から説き起こされる(「啓蒙を論ず」「厳粛を嘆ず」)。『テンペスト』の主人公であるミラノ大公プロスペローは書物の世界に立て籠もり、言葉の魔力で宿敵ナポリ王の一行を翻弄する。そんなプロスペローが「権力」と化した活字を象徴し、無知蒙昧な怪物キャリバンは、活字から自身を遠ざけてきた者を象徴している。そのように説くこの冒頭の2章だけでも、橋本のこの本には現在なお読み返されるべき価値がある。同書が少しでも手に入りやすくなるよう、中央公論新社と平凡社には復刊あるいは増刷を期待したい。

ところで、活字から「離れた」ままだと思われていた者――現代の「キャリバン」――たちも、じつは言葉を切実に求めていた。それもたんなる情報や娯楽で消費される言葉ではなく、自らを鍛える「啓蒙」の言葉を求めていた。そのことを証拠立てるのが、「読書猿」という筆者による大著『独学大全』が、ときならぬベストセラーになったことである。啓蒙するべき立場の者が啓蒙を怠ってきた以上、みずからの「無知」に気づいた者は、己を自身によって啓蒙しなければならない。昨今の「独学」ブームは、多くの「キャリバン」が、そのことに気づき始めたことを意味しているのではないか。

本文中に登場した書籍一覧
古事記』著 橋本治(講談社 2009年) 
源氏物語』著 橋本治(中公文庫 1995年)
『テンペスト』著 シェイクスピア
増補 浮上せよと活字は言う』 著 橋本治(平凡社ライブラリー 2002年) 
花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』著 橋本治(河出文庫 2015年)
熱血シュークリーム』著 橋本治(毎日新聞出版 2019年)  
独学大全』 著 読書猿(ダイヤモンド社 2020年)