暮沢剛巳

暮沢剛巳

水車で有名なシリア・ハマ。のんびりとした時間を大切にする人が多く、公園ではよくピクニックをしている風景が見られる。ハマは2011年からの内戦で激戦地となった。手を挙げる男が今どうしているのかはわからない。

(写真:佐藤秀明

日々の生活こそ凡てのものの中心である

大量のデータを資産として生かすためには、それをある視点や仮説のもとに取りまとめて意味を持たせることが重要になる。ばらばらのコンセプトのもとに作られたワークスを一つの物語のなかにまとめあげていく技術は、キュレーションと呼ばれる。学芸員の仕事として認識されていたキュレーションは現代では幅広いビジネスに用いられるようになった。ここでは、美術・デザイン評論家の暮沢剛巳氏による芸術祭の考察から、キュレーションが担う役割について再考してみたい。

Updated by Takemi Kuresawa on January, 24, 2022, 0:00 pm JST

キュレートの対象は展示物に限らない

都市の喧騒や汚れた空気、さらには面倒な人間関係から逃れたいという思いは誰しも抱いているだろう。それは単なる一時退避の願望に過ぎない気もするが、北川はそこに違う側面があることを指摘する。

はい。都市を謳歌してはいるのですよ。いろんな食べ物があるとかファッションがあるとか。だけど基本的に自分とは何か、本当の意味で五感全開で生きていないと感じているんでしょう。

(星野リゾート「旅の効能」最果ての地の芸術祭に大勢の人が集まるワケ)

この指摘には私にも思い当たる節がある。例えば、私は運転免許を持っていないので、地方の芸術祭では移動手段として主に電車やバスに頼ることになる。当然、現地での行動予定は時刻表に即して立てなければならないが、とにかく便数が少ない分行動にはかなりの制約がある。また今回、珠洲は会期前半にまん延等防止措置や震度5強の地震の影響で作品の公開に制限がかかったし、一方大町では、熊が出没したため、私が訪れた当日には川俣正の「源汲・林間テラス」など一部作品の公開が中止された。事前に想定済みのものであれ不測の事態であれ、地方芸術祭ではしばしばこうした不自由に遭遇するが、私を含めた多くの人々はそのことを承知の上でわざわざ不自由な「絶望的な場所」へと足を運んでいる。この選択は、自らの五感を解放したいという欲求と深く結びついているに違いない。

打ち捨てられた台車
同じくネバダ州。ぼろ馬車が打ち捨てられていた。

また北川は「食事が悪かったら、リピーターは来ないよ」と芸術祭を定着させるうえで食の重要さを強調する。確かに、食は観光に欠かせないファクターだ。自然豊かな「絶望的な場所」であれば、必ず地元の名産と言っていい食材や料理・酒があるだろうし、それをいかにして来訪者にふるまうのか、主催者の対応が芸術祭の成否を大きく左右する。ここでもまた、情報の取捨選択としてのキュレーションの精度が問われることになる。

民主的な手続きを経ることで芸術祭は画一的になる

さらに特筆すべきが、出品作家をすべて北川一人で決めていることだ。もちろん、この方針には異議もあるだろう。地方芸術祭には公金が投入されているので、当然その使途には公平性や透明性が求められる。であれば、参加作家は委員会の合議などの民主的な手続きを経て決めるべきなのが当然であるからだ。だが北川は、そうした手法だと選考に通るのはプレゼン慣れした作家ばかりで、他の芸術祭と代わり映えのしない顔触れになってしまうという。なるほど、多くの地方芸術祭で、合議によって選ばれている参加作家の顔触れは似通っているし(それもそのはずである。そもそも選考委員の顔ぶれが似通っているのだから)、逆に今回取材した3つの芸術祭にはいずれも、国際的に著名な作家に交じって、その地域特有の問題に深く根差しているため、他ではまず選考に通りそうもない作品を制作している作家も散見された。市原で豊福がアートディレクターを務めているのも、独断ならではの抜擢だろう。合議によってでもそうした作家を選考することは不可能ではないはずだが、北川には自分一人で選ぶことが最善という確信があるに違いない。決して民主的とは言えないが、成否の責任の所在が明快であるという点では、この独断も合理的なのかもしれない。

この10年来、町おこしや観光客の誘致を目的とした地方芸術祭が数多く開催されてきたが、その多くはコンセプトや作家の人選が似たり寄ったりで、他の芸術祭との差別化に苦心し、埋没してしまっている印象がある。一説には地方芸術祭の成功率は5%前後とも言われており、一般客になじみの薄い現代美術で過疎地に観光客を呼びこむことの難易度の高さが実感される。このコロナ禍を経た後では、従来通りの助成を期待できないこともあり、今後多くの地方芸術祭は淘汰されていくだろう。そう考えると、いかなるテーマを掲げるべきか、いかなる基準で作家を選考し、また地域の問題と結び付けて深掘りしていくか、食や宿を提供して観光客の誘致を図っていくべきなのか。久々に地方芸術祭を訪れる機会を通じて、情報の取捨選択としてのキュレーションの観点から考えるべき問題が無数にあることを実感した。

本文中に登場した書籍
拡張するキュレーション』著 暮沢剛巳(集英社新書 2021年)