井山弘幸

井山弘幸

パキスタン・ペシャワールの子どもたち。この写真を撮影した約1年後に、すぐ近くにあるアフガニスタンにソ連が侵攻。ペシャワールの街には大勢の人々が逃れてきた。

(写真:佐藤秀明

違いがわかるとは、分けることである

インターネットの普及によって、私たちは計り知れない量の情報を手に入れることができるようになった。しかし、それは本当に何かを知ることに役立っているのだろうか。人が「知ること」「わかること」とは何なのだろう。人文学者の井山弘幸氏が思索する。

Updated by Hiroyuki Iyama on February, 15, 2022, 8:50 am JST

同一性は感覚の世界ではミュートされる

知るという行為を、知らず識らずのうちに繰り返す毎日。あらためて知ることの周辺を問い直したり、原因をさぐったり、あるいはひねくり回したり、自由に歴史をたどり、世界を巡ることも。そんなことを始めるのも愉しい。まずは「違いがわかる」とは何かを考える。これは知識を得ることの欠かすことのできない契機()だから。考えなくても分かる、なんてことは決してない深い問題のように思う。そうに違いない。

ネスカフェ・ゴールドブレンドの半世紀続いたCMを覚えているだろうか。ダバダで始まるスキャット。キャッチコピーは「違いがわかる男の、ゴールドブレンド」。私が覚えているCMの映像は遠藤周作のものだった。初代は映画監督の松山善三で、狐狸庵先生は四代目。出演者が誰だろうとここではあまり関係ない。なんと言っても、このフレーズは印象的で忘れられない。だが「違いが分かる」の意味は何だろう。そもそも何と違うのかが語られていない。暗黙の諒解なのか。味について日常で使う「違う」は「いつもと違う」場合である。あれ今晩の味噌汁、違うよね?そう鰹節から飛魚ダシに変えたの。なるほどね。小さな嬉しい異変。それが「違う」の体験の一つである。いつもの味は慣れきっていて、つまり同一性は感覚の世界ではミュートされる。日常性の微睡みから覚醒が生じるのは「違う」の体験から。悪いこともある。さきほどの味噌汁の味がしないとなるとどうなるか。この味噌汁、違うよね?えっ、いつもと同じ。これは深刻。味覚障害の可能性があるからだ。ドラッグストアで亜鉛のサプリを買って服用してみるか、あるいは保健所に行ってPCR検査して貰うか。

話をもどそう。ゴールドブレンドの売りはフリーズドライ製法だった。淹れたての珈琲をそのまま蒸発乾固したのでは、水分が飛ばされて残滓にエッセンスが……ということにはならない。100℃付近まで加熱し沸騰させるため有機カルボン酸やアロマ成分が壊れてしまう。だから凍結したものをフラスコに入れポンプで減圧して低温で揮発乾燥させる。こうしてできたインスタント珈琲。白磁の茶碗に小匙2杯、適温の湯を注ぎ、そこに現出するものは、もし優れた製法ならばだが、寸部違わぬ元の淹れたての珈琲だ!ということは、違ったら困るのですよ。リアル狐狸庵先生はネルドリップ式で淹れた極上珈琲が、フリーズドライ製法で見事に再現されたものを味わい、いたく感激してのたまう。「いつもと同じ味だ!素晴らしい」。「違いがわかる男」の出る幕ではない。再度問おう。何と「違う」のだろうか。最初のキャッチコピーは後年「上質を知る人の」に変更された。ということは、そんじょそこらの珈琲とは違いまっせ、という自負だったのか。しかしこの自負は虚しいものに違いない。人をして心底「美味しい」と言わしめる味を追究した「違いがわかる男」は別にいたからだ。