井山弘幸

井山弘幸

パキスタン・ペシャワールの子どもたち。この写真を撮影した約1年後に、すぐ近くにあるアフガニスタンにソ連が侵攻。ペシャワールの街には大勢の人々が逃れてきた。

(写真:佐藤秀明

違いがわかるとは、分けることである

インターネットの普及によって、私たちは計り知れない量の情報を手に入れることができるようになった。しかし、それは本当に何かを知ることに役立っているのだろうか。人が「知ること」「わかること」とは何なのだろう。人文学者の井山弘幸氏が思索する。

Updated by Hiroyuki Iyama on February, 15, 2022, 8:50 am JST

違いがわかるためには、分析しなければならない

麻酔法の発見者ウェルズと山羊飼いのカルディー少年には共通点がある。

・笑気を吸入後に怪我をした人間に痛みの表情がないことの発見。これは山羊の異様な興奮を少年が目撃したことと同列であって、まだ観察者の域をでない分析前の状態。

・ついで自ら笑気を吸ってからの抜歯は、つまり医師がよく行なう犠牲的実験は再現性の確証が目的で、少年が自ら珈琲の実を齧ったことに対応する。

・そして違いがわかるようになる舞台には、歯科医も山羊飼いでもない別の人間が立っている。これこそが不確かな情報が堅実な知識へと変貌する、「感じる」が「分かる」に様変わりするプロセスの、よくある有力な型である。

とりとめのない展開に戸惑われた方がたにお詫びをいれつつ、最後はまた珈琲の話にもどることにしよう。17世紀末のイギリス。ジョン・ホートンは珈琲の「違いがわかる」ための科学論文を初めて書き、第3のステージに立ち会う(John Houghton, A Discourse of Coffee, 1699)。この論文は現在も刊行が続いている世界最古の科学雑誌『Philosophical Transactions』に掲載されたものである。イスラーム世界から17世紀に西欧にもたらされた珈琲。この時代にコーヒーハウスが誕生し何百人もの市民が押しよせた。ウィーンを包囲したオスマン帝国軍が置き土産に珈琲をもたらしたのも同じ頃。ホートンは大流行している謎の飲料の魅力の解明を感覚器官に頼らぬ化学分析に委ねる。

「もっとコーヒーのことを理解しようと思って、コーヒーの代用として時々使われると聞く、そら豆や小麦とどこが違うのかと考え、化学者のもとに送って分析を依頼したところ、蒸留によって得られる油脂の量は、そら豆の二倍、小麦の三倍であった。…蒸発乾固して得られる灰分はわずかで塩は含まれていなかった」

違いがわかるためには、分析しなければならない。こういう発想はさほど古いものではない。無名の化学者の蒸留分析は珈琲豆を油脂、精油、灰分に分けるのが精一杯だった。科学革命の世紀にしてこの程度なのか、と考える人もいるだろうが、そもそも元素分析しようにも、この時代の元素とは地水火風でしかなく、アリストテレス以来二千年近く分析の基底はこの四元素であった。周期表にアルファベット表記の元素が並ぶのは200年先のことだ。違いの本質をよりミクロな世界にもとめる流儀は、次第に洗練の度合を深めていくにせよ、感覚器官でとらえた原初の違いを、感覚の圏外にある物質存在の違いへと深化させる、その過程の一例を、珈琲と笑気の逸話をもとにお話しした。分析という聞こえの良い科学者の武器が必ずしも万能ではない、という話は、また別の機会にとっておこう。

本文中に登場した書籍
『珈琲の旅~吉祥寺・珈琲店「もか」』著 標交紀(いなほ書房 2017年)

参考文献
コーヒーの鬼がゆく 吉祥寺「もか」遺聞』著 嶋中労(中央公論社 2011年)
コーヒーに憑かれた男たち著 嶋中労(中央公論社 2008年)
カフェイン大全』著 B.A.ワインバーグ、B.K. ビーラー(八坂書房 2006年)
近代医学の史的基盤』著 川喜田愛郎(岩波書店 1977年)
『外科の夜明け』著 トールワルド.J 訳 大野和基(小学館 1995年)