井山弘幸

井山弘幸

パキスタン・ペシャワールの子どもたち。この写真を撮影した約1年後に、すぐ近くにあるアフガニスタンにソ連が侵攻。ペシャワールの街には大勢の人々が逃れてきた。

(写真:佐藤秀明

違いがわかるとは、分けることである

インターネットの普及によって、私たちは計り知れない量の情報を手に入れることができるようになった。しかし、それは本当に何かを知ることに役立っているのだろうか。人が「知ること」「わかること」とは何なのだろう。人文学者の井山弘幸氏が思索する。

Updated by Hiroyuki Iyama on February, 15, 2022, 8:50 am JST

差異性の認識から同一性の再現を確実にして初めて「違いがわかる」

ゴールドブレンドのCMが流れ始めたころ吉祥寺の「もか」店主の標交紀()(しめぎ・ゆきとし)は「違う味」をもとめて奔走していた。いまや伝説の人となった大阪の焙煎名人((()襟立博保(えりたて・ひろやす)の元に赴き生豆から焙煎する方法を伝授され、あとは昼夜の別なく研鑽を積む。試作品ができれば夜行列車で来阪し師の教示を仰ぐ。もはや幻の名著となった『珈琲の旅~吉祥寺・珈琲店「もか」』を読むと標さんの言う「ダイヤモンドの珈琲」、極上の味をもとめる旅は大阪で終わらなかったことがわかる。ヨーロッパの名店を片っ端から巡り、自製の豆と飲み較べる珈琲対決を繰り返す。まるで道場破りまがいの試練の末に自信を深めていく。こうしてできた「もか」のブレンドの一つフェラリーを私は学生時代に飲んだ。言葉が出ないほどの感激。筆舌に尽くし難き蠱惑の味。鬼神の霊薬に圧倒されるも、これは「違いを感じる」までの体験だ。でも標さんは毎日この鬼神の味を再現してみせたのだ。つまり差異性の認識から同一性の再現を確実のものとする技法へと移行せしめて、初めて「違いがわかる」の域に達することができる。

戯れるアジアゾウ
スリランカにあるゾウの孤児院にて2007年ごろ撮影。水浴びの時間にはしゃぐ仔象たち。

「違いがわかる」の前段階である「違いを感じる」体験は、珈琲の起源にまつわる伝説のなかで語られている。6 、7世紀のエチオピアの山羊飼いカルディーは野生の灌木の実を食べて異様に興奮した山羊を目撃した。自分でも齧ってみたところ陽気な気分になった、という。少年はイスラーム寺院の僧侶に不思議な体験の一部始終を話したが、僧侶は取りあわずに果実を竈に投げ入れてしまう。と、そこから心惹かれる芳香が漂ってきたので、焙煎された豆を火中から搔き集め、それを熱湯に溶かして飲んだ。これが珈琲の起源となった……。

もちろんこれは作り話に過ぎないけれど、感じる・分かる体験の推移過程を探るうえで示唆的なので書いた。この推移過程は少なくとも三つの段階がある。

第一に、山羊の異様なふるまいにカルディーが気づいたこと(差異性)。当然ながら山羊は発見者でない。ここではまだ原因が実か種かあるいは山羊の脳内物質なのか不明だ。

第二に、カルディーが自ら珈琲ベリーを齧って陽気になったこと(同一性・再現性)。

第三に、僧侶が実を火中に投げたこと。これは偶然に実と種の分離を可能にした。未分化の違和体験が、どうやら焙煎された種に原因がある……と分かる段階(分析性)。

ここから話はインドネシアに飛ぶ。コピ・ルアクという、カフェによっては1杯5000円以上する高級珈琲がある。ルアクはインドネシア語でジャコウネコ、コピは珈琲だ。その製法はこうだ。ジャコウネコはかなりの食通で熟れた美味しい珈琲の赤い実を選んで食べ、口中で皮を剥き果肉を味わった後の種は飲み込む。その種がジャコウネコの腸内で発酵してから排泄されたもの、これを焙煎して淹れた珈琲がコピ・ルアクである。ジャコウネコと山羊の違いはあるけれど、果肉を食べても興奮したりしない。種の方に何らかの魅惑の成分があるのであって、しかも焙煎してから湯で抽出して初めておなじみの珈琲になる。ここまで到達してはじめて「違いがわかる」状態になる。コピ・ルアクはベトナム産もあるそうだ。