藤田盟児

藤田盟児

雨の降る、京王百草園。四季の趣を楽しめる日本庭園だ。

(写真:佐藤秀明

人間関係は座敷で再構築される

テレワークが普及し、直接会わずに対話をすることは容易になった。しかし、画面を見ながらの会議は本当に言いたいことを伝えられているだろうか、参加者の本音に触れることができているだろうか。私たちは空間が持つ力を過小評価しているかもしれない。実空間は独特の意味や効用を持っている。

和室がどのように生まれてきたのかを研究し続けてきた藤田盟児氏に、その成り立ちから座敷という空間が持つ「平等性」を築き上げる力について解説してもらう。
(このテキストは、新教養主義宣言「新・和室学 世界で日本にしかない空間文化」から内容の一部を編集してお届けしている)

Updated by Meiji Fujita on February, 21, 2022, 0:08 am JST

武士たちにとって重要だったコミュニケーションのための空間

そういう時代に発展した「武士」の暮らしは『蒙古襲来絵詞』などに見ることができる。恩賞奉行であった安達泰盛のところに訴えに行った竹崎季長(たけざきすえなが)の姿を描いた場面を見ると、武士はいろいろな人たちと交流することによって自分の力を蓄えていったことがわかる。つまりコミュニケーションの空間は武士にとって非常に重要だった。

1268年ごろに、鎌倉でつくられた『名語記』という辞書がある。長い間金沢文庫の中に所蔵されていたためあまり知られていないが、北条実時に献呈されたこの辞書を見ると、当時の鎌倉で使われていた言葉がよくわかる。なかには今ではわからなくなった言葉も少なくなく、その中には“テヰ(デイ)”というものがある。この辞書は問答形式で語源を問う作りになっており、「家ノ客殿ヲテヰ何」(家の客殿をデイとはいかん)とあるところを見ると、「答 テヰハ出居ナリ」と書いてある。つまり武士社会でいうカタカナの“テヰ”は公家社会で言うところの漢字の“出居”だと言っているのだ。客殿とは客室あるいは接客用の建物で、安達泰盛邸で竹崎季長が泰盛に対面している部屋こそが“テヰ(デイ)”である。漢字ではなくカタカナが用いられているのは、鎌倉の武士は漢字が読めない人が多かったためだろう。

ごく簡単に言えば、公家住宅の隅のほうにあった応接室の出居が、武家住宅では大きくなって建物の中心に構えられている。そして実は、武家住宅で使っていた客室のデイが今の和室、座敷というものになる。

飲めや歌えやと騒ぐための「座敷」が誕生

北条重時という鎌倉時代の連署(北条義時の三男)が1240年ごろに書いた『六波羅殿御家訓』には“座席”という言葉が何度も出てくる。酒宴の座席、遊宴の座席、入れ乱れたる座席。とにかくお客さんが来て、一緒に飲み食いして、飲めや歌えやと騒ぐところが座席なのだ。1カ所だけ“座敷”という言葉が出てくるが、これは座に敷くものの並べ方のことを“座敷”と言っていたようだ。

北条重時は、その約20年後に出家し、亡くなる前に自分の子どもたちのことを案じて「御消息」という遺言状のようなものを書く。それを見てみると、例えば10条には「お酌を取って三歩寄って、膝をついて(お酒を注ぎ)、それから三歩退いて、膝をついてかしこまるべし、せばき座敷、また女房の御前などにては心得べし」といったことが書いてある。要は、三歩寄っていってお酒を注いだら、三歩退いて、蹲踞(そんきょ)してかしこまっているべきで、とくに狭い座敷の場合や、女房--身分の高い女性の御前などにては、この作法を心得ておくべきだ、と記しているのだ。

また81条では、「酒の座敷にては、はるかの末座までも」ちゃんと目をかけて、言葉をかけて、みんなに仲良く、平等に接しなさいよといったことが書いてある。前は酒宴の“座席”と書いてあったのが、ここでは“座敷”に変わっている。「狭い座敷」とあるから、これは明らかに空間のことだ。

さらに決定的なのは、9条のところに「長押(なげし)の面(おもて)には竹釘打つべからず。畳のへり踏むべからず。さえ(敷居のこと)の上に立たず。ゆるり(囲炉裏のこと)の縁、越ゆべからず。(そういうことは)万人にも、世にも憚るべし」とマナーを教えていることである。つまり、畳を敷いた部屋があり、その部屋には敷居があり襖が立っていて、そして柱同士は長押でつながれている部屋があるということだ。これは今の和室のつくりと同じである。座敷という空間が、和室の原型ができたのだ。