藤田盟児

藤田盟児

雨の降る、京王百草園。四季の趣を楽しめる日本庭園だ。

(写真:佐藤秀明

人間関係は座敷で再構築される

テレワークが普及し、直接会わずに対話をすることは容易になった。しかし、画面を見ながらの会議は本当に言いたいことを伝えられているだろうか、参加者の本音に触れることができているだろうか。私たちは空間が持つ力を過小評価しているかもしれない。実空間は独特の意味や効用を持っている。

和室がどのように生まれてきたのかを研究し続けてきた藤田盟児氏に、その成り立ちから座敷という空間が持つ「平等性」を築き上げる力について解説してもらう。
(このテキストは、新教養主義宣言「新・和室学 世界で日本にしかない空間文化」から内容の一部を編集してお届けしている)

Updated by Meiji Fujita on February, 21, 2022, 0:08 am JST

武士たちが抱いた「貴賤同座」への強い思い

遊びを通してそれまでの秩序や習慣を破壊し、そこから新しい空間を創造していく。そのようにして発生したのが座敷である。そしてこれは書院造という様式の建物の中で行われた。

民家を除いた日本の上層住宅には寝殿造と書院造の2つの様式がある。では寝殿造とは何なのか、書院造とはどう異なるのか。

寝殿造は中心に一段高い母屋(もや)という空間があり、基本は天井がなくて中央が一番高く作られている。周りに庇という空間があって、庇のほうに行くと屋根がどんどん下がってくる。空間的にも中心と周辺というのがはっきりした空間が寝殿造だ。

一方、書院造は水平な天井が張られて、床も一面同じ畳が敷かれ、車座になって座れるように正方形の床の間になっている。武士たちは対等の関係で契りを結ぶときに傘(からかさ)連判状といって車座の署名するが、そうした関係が反映される空間になっているのだ。この署名の形式はのちの江戸時代に一揆を起こす人たちが同じ形を用いる。車座に向かい合う対等な人間関係を実現するために座敷は正方形につくられた。

とはいえ、書院造の要素はもともと寝殿造の中にすべてあった。しかし寝殿造の空間は、場所によって天井の高さや床の高さが異なるから、身分に応じて居る場所が決まってしまう。そのような世界において武士がどう扱われたかというと、貴族の家では武士は建物の上にあげてもらえない。地下人(じげにん)と呼ばれ、地面にむしろや皮を敷いて座らされた。それだけ身分的に差別されていた武士だからこそ、自分たちも建物の上にあがりたい、貴族と同じ部屋で対等な存在として話をしたい、そういう願望が平安時代の武士の間には連綿として続いてきた。だからこそ貴賤同座できる、だれでも身分の区別なく入れて、そして入った人間は平等な関係になれるという、そういう空間を必要としたのだ。その思いが鎌倉時代に座敷を生み出した。

数寄屋造りが権威から座敷を取り戻す

その後、座敷飾りなどができ「ばさら大名」たちがいろいろなものを飾って、座敷を自分の表現の場に変えていく。座敷は一時的に格式化するのだ。さらに足利義満や足利義教はそれを自分の権威の表現にしてしまい座敷の権威化が始まるわけだが、それに対応して出てきたのが茶室である。権威化した座敷に代わって、新しい平等空間として茶室が登場するのだ。そしてさらに、その茶室が生み出したさまざまなデザインを今度は書院造のほうが取り入れ、それが数寄屋風の座敷となる。数奇屋は平等をもう一回取り戻そうとしたのだ。

今の料亭や和風旅館で使われている意匠のほとんどは、平等を取り戻そうとした数奇屋の方である。意識的にか無意識にかはわからないが、日本人はどうやら座敷の本来の効用に気づいているらしい。