藤田盟児

藤田盟児

雨の降る、京王百草園。四季の趣を楽しめる日本庭園だ。

(写真:佐藤秀明

人間関係は座敷で再構築される

テレワークが普及し、直接会わずに対話をすることは容易になった。しかし、画面を見ながらの会議は本当に言いたいことを伝えられているだろうか、参加者の本音に触れることができているだろうか。私たちは空間が持つ力を過小評価しているかもしれない。実空間は独特の意味や効用を持っている。

和室がどのように生まれてきたのかを研究し続けてきた藤田盟児氏に、その成り立ちから座敷という空間が持つ「平等性」を築き上げる力について解説してもらう。
(このテキストは、新教養主義宣言「新・和室学 世界で日本にしかない空間文化」から内容の一部を編集してお届けしている)

Updated by Meiji Fujita on February, 21, 2022, 0:08 am JST

身分に関係なく、勝負に負けた者は、箸なしでご馳走を食べた

上層の武家住宅にあった座敷の広さは、三間の三間で、九間。それは18畳、約20畳の大きさの部屋である。畳は部屋の周囲にだけ敷いてあり、これは“追い回し敷き”という。

このような部屋で行われていたことは、北条政村という翌年から執権になる人(このときは連署)が書いた『吾妻鏡』などを見るとわかる。弘長3年(1263年)2月8日から10日まで3日かけて開催された千首和歌会の事件を記したものだ。

このとき政村に声をかけられて歌の得意な御家人ら17名が集まった。初日には一人50首から100首を詠み、それを紙に記録する。2日目には、将軍の和歌の師がその歌を評価し、まるで小学校の宿題のように合格の歌に丸をつけていく。その丸を“合点(がってん)”という。点を合わせる、点を打つという意味だが、それが今の「ガッテン」になっている。

3日目には成績発表がある。1位は歌人として有名な人が獲ったが、2位には埼玉の田舎から出てきた若い田舎侍がついた。北条政村は3位だった。そしてこの後は成績順に並ばなくてはならない。しかし3位が連署で2位がどこの馬の骨とも知れぬ若造ではまずかろうということで、2人が対等の席になるよう配置をしたら、それを見た歌の師が「ルール違反は情けない」と言い、政村はすぐさま自分の席を立って、若い侍の下座についた。若い侍は恐縮して逃げ出してしまったそうだが、政村は家来に命じて連れ戻させて、そして自分の上座に座らせて、そして2位の賞品を受け取らせたという。

祭の舞台に群がる子ども。
新潟県の中ノ俣の祭。2019年撮影。

このエピソードからわかるのは、武士たちの願望は、能力に応じて人の扱いや地位が決められる世界であってほしいということだ。だからこそ、たとえ社会的な身分が自分のほうが高かろうが、歌の勝負で負けた以上、自分が下座に座るべきだということを政村は態度で示した。それが武家社会を引っ張っていく指導者のとるべき態度なのだ。

ちなみにこの歌会では、1位の人は虎の皮の上に載せられた山のような景品を虎の皮ごともらい、2番の田舎侍は熊の皮の上に置かれた豪華な景品を授与された。3番の政村はなめし革の上に置かれた景品をもらっている。

一方、何十首もつくったのに合点が一つもない「無点の輩(むてんのともがら)」は縁側に座らされた。3日目の講評が終わると打ち上げの宴会が開かれるわけだが、縁側に座らされた者の箸は取り下げられてしまうので、箸なしで御馳走を食べた。それを見ながら、みんなで大笑いしたらしい。無点な者たちも、そういう罰ゲームを面白がって笑っていたようだ。

だから武士社会には、日常的には身分制が残っていたが、優れた者は評価され、だめなものは笑いの種にされるということが非常に肯定的にとらえていた。最後のところは「満座が大笑いした」と書かれているくらい、エネルギッシュな交流が図られていたのだ。

連歌、闘茶、双六、博打……武士たちが勝負に夢中になった理由

この当時の座敷では和歌の会のほかにも、連歌、闘茶、双六、博打などが開かれていた。なぜ武士たちがそのようなものに夢中だったかというと、これは『平政連諫草』のなかにヒントが隠されている。これは幕府の奉行になった中原政連という人が北条貞時という鎌倉時代後期の執権にあてた諫め状で、「連日の酒宴を早くやめてくれ」というようなことが書いてある。体を壊すから酒宴を休ませてというのである。「或いは勝負の事といい、或いは等巡の役といい、かれこれ用捨しがたく(選べなくて)、皆ともに召し加えられば、何の時が休む時あるべき」。つまり、武士たちは持ち回りで飲むほか、和歌の会や闘茶、連歌、博打、双六などの勝負事のことを頻繁にやって、その結果が休み無しの連日の宴会になっていた。異常に思える光景であるが、そのエネルギーはおそらく勝負の結果に応じて席を変えるということを目的としていた。古い身分制を振り捨てて新しく対等な人間関係を築くことを強く望んでいて、そのためにお金も体力も、命削ってまで勝負事をやっていたのだ。

遊びや酒宴の中で平等な人間関係というものを体験する。そして、人間同士の平等性というものを獲得する、その感覚を獲得していくために、鎌倉時代から室町にかけて、闘茶、連歌は日本中で大流行する。そして遊びの場は「貴賤同座」となり、尊い人も卑しい人も座を同じくした。平等に人々が向かい合い、平等な人間関係を体験する場所としてつくられたのが座敷なのだと私は考えている。