暮沢剛巳

暮沢剛巳

1980年代に南アフリカで撮影。アパルトヘイト最中の白人専用ビーチ。唯一の黒人として物売りの少年が写っている。

(写真:佐藤秀明

生命感のあふれる遊びがない。それが現代の空虚さだ

新たな価値を創造する手段として近年ではよくアート思考やデザイン思考が用いられている。一般的にアートとデザインは異なるものだと認識されているが、日本を代表する芸術家・岡本太郎は実は数々のデザインワークを手掛けてきた。岡本はデザインをどのように捉えていたのだろうか。岡本の思考を探ることで、デザインとは何かを今一度考えてみよう。

Updated by Takemi Kuresawa on February, 22, 2022, 0:08 am JST

「俺はバッドデザイン主義だ」

またデザインという観点から忘れてはならないのが日本デザインコミッティーである。現在も存続し活動しているこの組織は、1954年の第10回ミラノ・トリエンナーレの参加準備のために結成された国際デザインコミッティーを前身とし、「建築家とデザイナーと美術家は、汎地球的な規模における自人類文明のため、協力を重ねなければならない」というスケールの大きい理念の下、1955年に結成された親睦団体である。この団体の設立に当たって中心的な役割を果たした勝見と剣持は、亀倉、渡辺力(プロダクトデザイン)、浜口隆一(建築評論)、丹下、坂倉準三、清家清、吉阪隆正(建築。なお坂倉は岡本邸の設計者でもあった)、石元泰博(写真)、瀧口修造(詩)など各分野のクリエーターを糾合したが、その中に当然のように岡本の姿もあった。岡本に声がかかったのは、長い在仏経験を有し、フランス語に堪能であった彼の国際感覚が、「汎地球的」を標榜するコミッティーの理念にふさわしいと判断されたからであろう。デザインコミッティーは結成のきっかけとなった第10回のトリエンナーレへの参加は見送ったものの、1957年の第11回トリエンナーレに参加を果たし、また銀座松屋にグッドデザインというコーナーを開設し、これがGマーク(現在のグッドデザイン賞)制定のきっかけともなる。岡本自身、トリエンナーレに陶板レリーフを出品し、またこのコミッティーを現代芸術研究所のプログラムと関連づけて精力的に活動するのだが、「この運動のおかげで、いわゆるグッドデザイン調という、1つのムード、形式が出来ていることは否めない。すっきりと、シャレていて、機能的だという――ところで私はもう久しい間、このモダニズムにかっがりしているのだ。そしてしばしば、俺はバッドデザイン主義だ、などと憎まれ口をきいている。もっと強烈な表現が欲しいからだ」(「グッドデザインとバッドデザイン」)と、機能的なデザインには与しない心情を吐露しているところもまた岡本らしいというべきか。

宇宙人のデザインで原子力への見解を示す

ではこうした団体での活動を通じて、岡本はいかなるデザインの仕事を手掛けたのか。いくつか作品を挙げてみよう。

1956年1月29日、大映製作の映画「宇宙人東京に現る」が封切られた。日本初のカラーSF映画として知られる作品だが、実は岡本はこの映画に登場するパイラ人という宇宙人のデザインを手掛けている。

ごく手短に映画の概要を期しておこう。20世紀の地球は原水爆の開発競争で危機に瀕していたが、パイラ人はそのことに警告を鳴らすために地球人の美人女性に変身して日本の科学者への接触を図る。パイラ人は地球に新天体Rが迫っていることを知らせるも、なかなか相手にされなかったが、天変地異が怒り始めたことでようやく超大国が危機を認識し、最後はパイラ人の助けを借りて危機を脱出する。このように、パイラ人は宇宙人と言っても侵略者とは全く異質な、いたって友好的な存在である。これは、1951年のアメリカ映画「地球の静止する日」をモデルにしたものとされている。封切りから60年以上たった現在でも配信で視聴可能なので、興味のある読者には一見をお勧めしておく。

ところで肝心のパイラ人だが、頭と両腕両足が延びたヒトデ型で、中央の胴体の部分に大きな瞳のある形状である。ポスターでは赤く描かれているが、映画の中に登場するパイラ人はみな黒い皮膚に青い瞳である。同時期の絵画作品ほどの迫力が感じられるわけではないが、それでもデフォルメされたヒトデの形態はいかにも岡本らしいと思われるデザインだ。

私の知る限り、この作品についての岡本の著述は存在しないので、彼がどのような経緯でこの作品に参加したのかはわからないが、友好的な宇宙人像や核廃絶という理想に興味を惹かれたことは確かだろう。

2年前の1954年には、南太平洋上で第五福竜丸事件が発生し(岡本は後年「明日の神話」でこの事件に取り組むことになる)、その惨劇は同年に公開された「ゴジラ」を触発し、また同時期のアメリカでも「原子怪獣現る」「放射能X」「水爆と深海の怪物」といった原水爆の恐怖をテーマとした映画が製作されていた。その一方で翌55年から56年にかけて全国各地を巡回した「原子力利用平和博覧会」は、原子力の平和利用を推進する目的で、もっぱらその「夢のエネルギー」としてのプラス面を強調していた。この作品に登場したパイラ人は、当時の原子力をめぐる様々な見解に対する岡本の1つの回答であったに違いない。なお、あのスタンリー・キューブリックは、この作品を見た後に「2001年宇宙の旅」の構想を思いついたとのことで、意外なところに影響が波及していることがわかる。