暮沢剛巳

暮沢剛巳

ハワイのキラウエア火山。絶え間なく流れ落ちるマグマはやがて海へ至る。

(写真:佐藤秀明

対極的な相互の緊張関係において、
実はデザインは生きる

「デザイン思考」はすでに多くのビジネスシーンで取り入れられているためなじみがある人は少なくないだろう。しかし、多数のデザインワークを手掛けた岡本太郎のデザインに対する考え方は一般の人がイメージするそれとは随分異なる。大芸術家の思考を紐解くことで、デザインのさらなる可能性を探ってみよう。

Updated by Takemi Kuresawa on March, 1, 2022, 8:50 am JST

バタイユの弁証法を独自に発展させた岡本の「対極主義」

岡本独自の思考を象徴する言葉としてよく知られているのが「対極主義」である。これは、正反対の性格を持つ2つの要素を対決、もしくは共存させることが「芸術」の要諦であるという考え方であり、例えば『岡本太郎の宇宙 対極と爆発』(ちくま学芸文庫 2011年)では以下のような形で展開されている。

ここでは、西洋の近代絵画を合理主義と非合理主義という2つの極から整理することが試みられている。この整理はもちろん岡本独自の視点によるものであったが、前回掲載したチャートを確認すれば、それが美術史的にもかなり精度の高いものであったことがわかる。

トラックと群衆
1975年ごろパキスタンにて撮影。トラックは乗客を乗せられるだけ乗せ、好きな路線を好きなだけ走る。

岡本が「対極主義」に言及するようになったのは、戦後間もない時期のことである。そこには、「夜の会」で協働していた花田清輝らの影響が指摘されているが、その思考のマトリックスと言うべきものはそれより以前、1930年代の滞仏時代に形成されたものと推測される。
抽象美術運動に加わったり、パリ大学で民族学を学んだりした約10年に及ぶ岡本の滞仏経験はよく知られているが、この時代に岡本に最も大きな影響を与えたのが作家・思想家のジョルジュ・バタイユであった。1936年初頭にバタイユと邂逅した岡本は、彼の手引きで研究会や秘密結社の活動に参加するようになる。バタイユの特異な思想を、岡本は以下のように要約している。

「右の神聖と左の神聖」その弁証法である。右の聖性は既成勢力であり、公認された諸権威である。ブルジョワ的な道徳、向こうになった宗教、すべてがこれだ。それをおかすものが左の神聖である。だから右にとって、左の神聖は常に破壊者、犯罪者、加害者だ。
右の聖性はおかされるものとしてある。否定される条件において神聖なのである。だからわれわれの意思は左の聖性としてそれを打倒さなければならない。ニーチェの“神は死んだ”は第一の命題であった。しかし空虚な残滓は現実のいたるところに残っている。
徹底的な否定は絶対的な肯定を前提とする。われわれ自身によって新しい神(神聖)が想像されなければならない。それはたしかに過去に絶望し、現代に裏切られた当時の若い世代が情熱をもってぶつかり、解決しなければならないぎりぎりの課題であった(『爆発と瞬間』)。

この文章を読んでいて、まず目に留まるのが冒頭の「弁証法」という言葉である。言うまでもなく、弁証法とはヘーゲルが提唱した「正(テーゼ)/反(アンチテーゼ)/合(ジンテーゼ)」からなる、西洋の近代合理主義精神の代名詞とも呼ぶべき三段論法である。だがヘーゲルを精読したバタイユはその論理を徹底的に批判する。この要約でヘーゲルの弁証法に対置されているのが、バタイユが独自の視点から再構築した、ヘーゲルのそれとは全く異質な弁証法だ。既成勢力としての「右の聖性」と、破壊者、犯罪者、加害者としての「左の聖性」。とりあえずここまでの図式はヘーゲルの「正/テーゼ」「反/アンチテーゼ」と同じである。しかしその先にあるのは、両者の対決や侵犯であって、「合」に相当する部分が存在しない。このおよそ弁証法らしからぬ弁証法は、ほとんど岡本の「対極主義」そのもののように思われる。岡本は滞仏中も帰国後もしばしばヘーゲルの弁証法への違和感を表明していた。彼にとって、「合/ジンテーゼ」は対決や侵犯、分裂のエネルギーを縮減する認めがたいプロセスであり、それを取り除いたバタイユの弁証法は大いに魅力的に映ったのだろう。そのことを踏まえれば、岡本の「対極主義」はバタイユの弁証法を独自に発展させたものと言うことが出来る。

「主義」から離れるために

画家としての岡本は、当然のことながら自らの制作活動において「対極主義」を実践した。戦後間もない時期に制作された「重工業」(1949年)や「森の掟」(1950年)はいずれも岡本の代表作と目される絵画作品であるが、この両作品はいずれも多視点的な空間把握を追求した抽象絵画の合理性と無意識の表現を目指したシュルレアリスムの非合理性との対決の上に成り立っており、充実した作品を生み出したという点において、「対極主義」が有用な作品の制作原理であったことは間違いない。だが岡本は、ほどなくして「対極主義」から遠ざかろうとするのである。

なぜだろうか。もちろん、「対極主義」に代わり得る有用な制作原理を見出したからではない。そもそもこれほど強力な原理など滅多にあるものではない。逆説的な言い方だが、「対極主義」があまりに有用であるがゆえに、岡本は一旦そこから距離をとる必要があったのである。その点について、美術評論家の椹木野衣は「対極主義が『主義』であるかぎり、それは美術史の内部に閉ざされ、結局その『外』に出ることはできない。ゆえに対極主義は、単なる絵画を描く上での構成上の問題に収まることなく、後に『絵画』のための方法であることを大きく越えて、つまりは美術の一問題であることを超えて、(岡本)太郎の生を貫くすべての局面へと拡張されねばならなかった」と述べている(解説「『爆心地』に残された言葉」)。適切かつここでの問題にも深く関わってくる指摘である。

銭湯
雪が谷大塚の明神湯。2010年ごろ撮影。

美術の歴史は様々な「――主義」の盛衰の歴史である。キュビスムもシュルレアリスムも、その画期性ゆえに美術史上の重要な動向として記憶されているが、半面本来普遍的だったはずのその問題提起は、20世紀前半の一時期の動向として固定されてしまった。対極主義も「主義」である限り同じ運命を免れることはできない。前回確認したように、岡本は「美術」よりも「芸術」にこだわる性質であり、であればこそ美術史の中に固定されてしまう対極「主義」からは離脱しなければならなかった。

もちろん、岡本が「正反対の性格を持つ2つの要素を対決、もしくは共存させる」思考の弁証法まで放棄したわけではなかった。そもそも岡本が戦後間もない時期に縄文土器に「四次元の美」を見出し、これを近代美術と対置してみせたことは、この発想を絵画の制作理論にのみとどめるつもりがなかったことを物語る。対極に魅了され、それを自己の生の全てへと拡張しようとした岡本が、一流派としての「対極主義」から離脱するのは自然な流れであった。「主義」から逸脱したこの論理の構造を、岡本本人に倣ってここでは単に「対極」と呼んでおこう。