「ミニマリスト」や「丁寧な暮らし」は流行することである一つの世界観に集約されていった
「ミニマリスト」は、なるべく所有するモノを減らすことを目指すものであり、「不要な物を」持たないようにする断捨離とは、厳密には意味が異なる。ただ、所有することをクリティカルに捉え直す試みである点においては、2010年前後以降の社会変化の俎上に据えることができるだろう。さらに、近年の特にいわゆるミレニアル世代と呼ばれる若者たちの間では、モノを持たないことが「かっこいい」という風潮が見受けられるようにも思われる。これは、昨今耳にするようになった「丁寧な暮らし」のような価値観とも結びつくものかもしれない。単に世間で流行っているからという理由でモノを購入するのではなく、自分の好きなもの・自分が良いと思うものを手にすることが「かっこいい」。さらに、世間に流されず自分を大切にすること、さらには自分へのご褒美、といった感覚も、こうした近年の社会的風潮の現れともいえる。
ただ、こうした「ミニマリスト」や「丁寧な暮らし」という言葉が作られ流通することによって、それまで分散的で多様な実践としてあったものが、ある一つの世界観やイメージの中に集約されていくことになる。それは、モノを所有することが一つの価値でありステータスであった時代とは一見異なる価値観のようではある。しかし、モノを持たないことが一つの流行やライフスタイルになるということは、現代の消費資本主義社会において、実のところ「所有する」ことも「所有しない」ことも根底にあるロジックは同じなのかもしれない。
何かを所有するという感覚は「絶対的貧困」
では、そのロジックとはなんなのか。それを探るヒントを、産業資本主義が拡大し始めた19世紀後半に目を移して考えてみたい。「私有財産の廃棄は人間のすべての感覚と特性の全面的な解放」である。カール・マルクスは、『経済学・哲学草稿』(1844年)の中でこのように述べ、資本主義社会における所有が、いかに人間の存在、そして人間的であることと深く関わるものであるかを論じている。
私有財産のおかげで、わたしたちのものの考えかたは大変に愚かで一面的なものになっているため、なにかを自分のものだと感じるにはそれを所有しなければならない。つまり、それが資本として手元に存在しなければならない。あるいは、それを直接に手にするとか、飲むとか、身につけるとか、そこに住むとか、要するに、それを使用するのでなければならない。
こうして、「すべての肉体的・精神的な感覚に代わって、すべての感覚を単純に疎外したところになりたつ『所有』の感覚が登場してくる 」のだとマルクスは述べる。

マルクスにとって人間の感覚—そして彼のいう「全面的人間」—とは、主体と客体の融合の中に存在するものである。「人間の音楽的感覚は音楽によって初めて呼びさまされる」、つまり「非音楽的な耳にとっては、最高に美しい音楽でさえ、いかなる意味も持たないし、音楽として対象になることがない」というように、マルクスによれば、人間の感覚は「直接に実践のなかで理論的な力を獲得」していくものなのだ。これは、後にブルーノ・ラトゥールらの議論にもみられるような、自分の感覚とそれを取り巻く世界(対象)との相互関係の中で五感体験が生まれるということでもある。
こうした内と外の区別を無くしたところに「全面的人間」は立ち現れる。何かを所有するとい う感覚は「絶対的貧困」だと豪語するマルクスにとって、何かを所有するということは、五感を含めた自分の身体の外部に所有する対象を置くことであり、それを「持つ」ということは、マルクスの言葉では「直接的で一面的な享受」にしか過ぎず、決して人間的な存在と感覚の獲得に寄与するものにはならないのである。