「見る」ことを改めて意識する
見る、とは人にとってどういう行為なのだろう。見えなくなったとき、見えにくくなったとき、それまで当たり前だった「見る」を人は意識する。もちろん視力を持たない人や、それに頼らない人も数多いることは承知だが、自分を含めたいていの人は、「見ながら」毎日を過ごしている。たとえば、目を覚ませばまず目を開けて、明るいこと、遅刻していないこと、自分が自分であること……などをゆっくり認識することで私の朝は始まっていくように思う。私は、眼鏡は手元を見るとき用の老眼鏡のみ使っているので、朝起きて活動を開始するのに眼鏡を装着することはない。しかしもっと視力が落ちていったなら、いずれ「見る」を開始するのに目を開けるだけでは間に合わない、そんな時もやってくるのだろう。
科学技術とアートをかけ合わせる意味
サイエンス&アートという分野がある。筆者はとくに、自分や自分回りのコミュニティがデフォルトとしてもっている思考の型や枠組みから意図的に逸脱する手法として、科学技術とアート/デザインの融合、中でも科学技術とアートのかけ合わせを推進している。普段は言語学や翻訳学を専門分野として人文社会科学系の仕事をしているが、なんであれ科学は事象を切り出し、整理し、名前と定義を与えた上で互いの関係性を調べていくことだと認識している。できるだけノイズの少ない法則性を見つけたいと、知らず知らずのうちに探しながら言語データの海をさまよう。しかし法則は、必ずしも当たり前のように見えてはこない。予想通りの答えを探すのではなく、予想そのものをずらし、斜めからアプローチしてみることが必要なのだが、なかなか簡単なことではない。そこで、アート的思考やアプローチが、きらめきを放つことがある。もちろんアートにもいろいろな型や手法、慣習があるけれども、それらに加えて慣習を破って他の手法を試したり、感性や偶然を楽しんだりといった自由さがあり、その辺りにポイントがあるような気がしている。
東工大の野原研究室は、2022年度4月から1年間、コンタクトレンズの某外資系メーカー(α社とする)との研究コラボレーションを実施したのだが、それがなかなか良い具合でサイエンス&アートな内容だったのでその話をしたいと思う。