資本主義の競争によって加速した進歩
個人主義が進み市民社会の一人ひとりが同じ出発点に立つようになると、そこから近代的な資本主義の競争という概念が出てくるようになる。その競争によって進歩は加速した。それが19世紀の後半から、20世紀のことである。当時は勝ったものはそれなりに良い価値を実現しているとある意味で信じ込めた時代。しかしその先にあったものを我々はもう嫌というほど知っている。
バブルの時代などは日にち毎日株価が上がり、自分の懐に入ってくるお金がどんどん増えた。所得倍増という夢みたいな話もあった。お金だけでなく、20世紀半ば過ぎぐらいまでは社会全体のどこのセクションを取り上げてみても何もかもがよくなっているように見える事象が世界的に起きていた。
カウ ンターカルチャーは勃興したが、進歩への信仰は根強い
ある意味でそれが崩れていったのがポストモダンだ。60年代の終わりから70年代初めにかけて、日本でいえば全共闘運動を代表に、つまり近代的な進歩の価値感に対して正面からノーをぶつけていこうとする人たちが現れた。アメリカでいえば西海岸のカウンターカルチャーとして出現したヒッピーたちがその例だ。ある意味で進歩の高みに達した社会において、地位が上がるとか、お金が増えるとか、今までその助からなかった病気が助かるようになるなどといった物事からは進歩が感じにくくなった。
これは私の非常に衝撃的な体験なのだが、五十年近く前に国連大学で「ジャパニーズエクスペリエンス」というタイトルで国際会議が行われた。つまり日本の経験を語る会議だ。参加した日本のスピーカーたちはみな良心的で、水俣病や四日市ぜんそくなどの公害病の経験のほか、もっと身近な例の無茶苦茶に汚れた隅田川についてのレポートなどを話した。多くがリベラルで進歩を謳歌するのにやや批判的な人だったからだ。しかし話を聞きに来た新興国の人々は「我々はそんな御託を聞きに来たんじゃない」と怒ってしまった。「お前さんたちが、ミラクルと言われるような進歩やり遂げたその秘密を聞きに来たんだ。そんな反進歩的なくだらん話はやめてくれ」と。その構図はCOP26の様子などを見てみるとまだある程度は残っている。先進国がたどり着いたその進歩の頂点に新興国はまだ向かっている途中で、そこまで達しないと問題の解決に着手はできないという状況がある。
一世紀近く続いた進歩に対する信仰は根強く残っ ている。それがいろいろな場面で現れているため、科学も医学も経済そして我々の生活環境や態度も進歩している。「新資本主義」を掲げる岸田首相にしても、やはり政権党の人たちの頭の中には「停滞は負けだ。安定状態は敗北だ」という認識はあると思う。そしてこれはおそらく立憲民主党にだってあるのではないか。日本共産党はまた全然別の意味での社会の進歩というもの考えているだろう。日本社会はどこかでそういう考えを持っている。
一部には、イギリスのようにある種の落日の栄光のようなものを誇りにしようとしている人たちもいる。つまり一旦進歩の極地に達した後、そこから緩やかに下がっていくことをよく考えてみようとする人たちだ。私も実は日本はそれでいいのではないかと思っている節があるが、進歩の極なるものに達したその先進圏でもそのような意見を持つのは難しいようだ。
本文中に登場した書籍一覧
『ヘラクレイトスの火―自然科学者の回想的文明批判』 著 E.シャルガフ 訳 村上陽一郎(岩波書店 1995年)
『科学革命の構造』 著 トーマス・クーン 訳 中山茂(みすず書房 1971年)
『アメリカのデモクラシー』 著 トクヴィル