生死の境目があやふやな「あいまいな喪失」
近年、「あいまいな喪失」が注目されている。「さようならのない別れ」も関わりが深い現象だ。人が生きているのか死んでいるのかを認識しにくいという経験とも言える。あいまいな喪失はアメリカの臨床心理学者のポーリン・ボス(Pauline Boss)が研究を重ねており、国内では柳田邦男氏がこの現象に注目し言及している。
あいまいな喪失が発生する要因の一つは認知症である。近親者が認知症を患うと、身体はあるけれどもコミュニケーションができない、もしくはいくら話してもそれに対する反応が得られないということが起きる。その後老衰などで亡くなったとしても、送り出した側としては生前から亡くなっていたのと同じだったと感じることがあるのだ。
さらにここにきて新型コロナの蔓延により、新たなあいまいな別れの要因が生じた。高齢者が老後を過ごす施設や病院に入って反応が乏しくなっている場合でも、自由に会いにいけるころであればささやかでも反応が得られることは少なくなかったはずだ。ほとんど反応がない、もちろん喋ることもできない状態であっても時々ちらっと表情が緩む。それによって人と人との関係は続いていた。しかし新型コロナが広まったことにより直接会うことが難しくなった。タブレットなどでやりとりができる場合でも、言語ばかりのコミュニケーションが中心になると、反応が得にくい人との関係はもはや保てなくなってしまう。
他方で、行方不明のような、死んだかどうかわからないような別れもあいまいな喪失の異なる形だ。近親者は「もう何年も帰ってこないが、どこかで生きているのかもしれない。しかし、やはり亡くなったのだろうか」という思いを持ち続けることになる。
東日本大震災により未だ2000名以上が行方不明である。残された家族は生死の区切りが見つからず10年以上経った今でも遺骨を探している人もいる。同様のことは9.11のときの米国でも見受けられ、「あの建物の中に、私の大事な人はいたのかしら。もしかしたらいなかったかもしれない。だけど連絡が今でも取れない」という人が何人もいた。
戦争で家族を失くした人たちがなんとか遺骨を拾いにいこうとしたのは、お骨をもって弔いをすることが当時の標準だったからだ。これは特に日本人がこだわってきた死生観の一つである。だから戦後何十年経っても、お骨を拾いにいく人がいた。
ところがだんだんとその標準が崩れてきて、お葬式もしない、あるいは遠くにいるからお葬式に出ようがないと考えるような例が増えてきている。弔いは骨がある場所で一堂に会するのではなく、連絡によってそれを「知る」ことにとどまることが多くなっている。
「あいまいな喪失」はデジタル化との関係も深い
このあいまいな喪失の感覚というのは、バーチャルな世界とリアルな世界が重なり合っている現代社会のあり方とも関連が深い。例えば、私自身も加齢のせいか付き合いがあった人の生死を忘れてしまうことがしばしばある。最近では新型コロナの影響で葬儀に出ることが難しくなり、ご遺族から「家族だけでお葬式をしました。ご生前には大変お世話になりました」といったメールだけで知らされることも少なくない。訃報は記録にはあるが、記憶にはどうにも残りにくくつい忘れてしまうのである。きちんと葬儀に参列して別れを経験した場合にはあまり起こり得ないことだ。
喪失それ自体は存在するが、喪失を喪失として受け止める装置や、喪失を皆で確認するその機会が失われているのだ。
バーチャルとリアルの境界がなくなるということについては、あえて亡くなった 人にメールを送り続けるという行為をする人のことも取り上げられるようになった。「応答のないメール」を送ることで死者との関係を持ち続けているのだ。
ある意味では、これは死者との絆が切れずにいつまでも続いていることを確認しやすい社会になったといえる。しかし逆から見てみると、例え生きていても、連絡を取らなければ死んでいるのと同じことになってしまうのかもしれない。
対面で会うことの少ない現代は、人と人との絆がデジタルに依存する要素が大きい。LINEがあるとか、メールが来ているとか、Facebookで発言していることが存在の証明になっていることもある。そこでの発言が少なくなったなと思ったら実は亡くなっていたということも実際に増えているのではないだろうか。
そこで生じる問題の一つは、自分が社会の堅固なつながりの中に生きているという安定感を得にくいことだと思う。私はそれを「絆がか細くなっている」と表現している。
心の支えにはなりにくいデジタル上の人間関係
日本人のスマホのなかにはどれだけ友人・知人のデータがあるだろう。LINEやFacebookの「友だち」、Twitterのフォロワー、それらは何千人、何万人とつながっている人も少なくない。しかし自分が死んだときに深い喪失を感じてくれる人や、大変なときにすぐに連絡しなければならないほど大事な人は、実はとても少ないのではないだろうか。
現代はそもそも兄弟や親戚の数が多くない。さらに親・兄弟であってもほとんど連絡をとらない人もいる。配偶者がいない人も少なくない。孤立・孤独というのはごく身近にある現象になっている。
だからこそリ アルで大事な人との関係の比重が非常に大きくなる。それだけにその関係の喪失は危機的なものとなるのだ。すると、亡くなったとしても近親者にとって故人との関係は重要であり続ける。これまでその方が自分の人生にとって持っていた重みが簡単にはなくならず、いつまでもその重みを抱えていくことになる。それに代わる新しい繋がりはそう簡単にできるものではないからだ。
このことは現代人の死生観にかなり大きな影響を与えている。死別が持つ意味がこれまで以上に大きくなり、死者とともにいることも重視されるようになった。
元来、人と人との関係というのはもろく崩れやすいものだ。しかしかつては張り巡らされた網のような関係がそこに関わっていたから、そう簡単に繋がりがなくなってしまうことはなかった。一つひとつの関係が細かったとしてもそれらは束状に太く補強されていた。だから、いずれかの関係の糸が切れたとしても人との繋がりは残る。もともと、昔の葬式にはそのような切れた分の関係を補強するような意味があった。
人間関係がデジタルに依存するようになると、たくさんの関係を持っているようでいて実はその多くは人の支えにはならない。デジタル化による社会の変化は、死生観への関心を変えていくだろう。人は従来よりも孤独になり、その分、自分の死や他者の死についてもより意識せざるを得ない。
会話が変わり、交わりが変わった
さらにデジタル化は、人の会話のあり方を変えてきている。携帯メールの普及以降テキストメッセージがやりとりされる機会が増えたが、声を介する会話と視覚のみに頼る会話は異なる。それもまた人間関係に影響を及ぼすだろう。同時にそれはケアのあり方、いのちの受けとめ方に関わる。
その理由の一つが時間に対する認識の違いだ。
私が7歳から10歳まで住んでいた家では、隣人が電話を持っておらずよく電話を借りに来ていた。隣人は大変お喋りな方で、私の家で平気で延々と長電話した後にさらにうちの母親と延々と喋っていた。まるでサザエさんの世界のようだが、現実にそういうことがあった。
当時もそれはもちろん少しは困るわけだが、今の困り方とは少し違う。もともとそれほど厳しく時間を管理していないから、少しぐらいの「ズレ」には寛大だった。そもそもいろいろなことが不便な時代であったから「仕方がない」と思うよりどうもしようもないことが多い。だからさまざまなことはコントロールされていない状態というのが当たり前で、会話もその一つだったのだ。井戸端会議はだからこそ発生した。
ところが、オンラインで時間をきっちり設定して会議が行われる環境ではこのような「仕方ない」という気持ちは生まれにくい。時間管理が厳格だと雑談もしにくく、そうすると当然、他者との間で「思わぬこと」が発生する機会も少ないのだ。
いのちの厚みをつくるケアし合う関係
コロナ禍以前は食事をしながら打ち合わせをする機会というのは少なくなかったはずだが、その効用は食事によって緩められた空気のなかで温もりある関係が生じることが一つ。もう一つは、予期しないやりとりが起こることにある。そうすると、それまで思いつかなかったような面白いアイディアが出てきたり、人の知られざる側面が見えたりする。オンライン会議ではそのようなことがかなりカットされてしまう。オンライン会議では目的に沿った会話をすることが重視されるのだ。
昔はテレビでインタビューに答える力士はポツポツとしか答えなかった。しかしむしろそれが相撲取りのいいところだった。今は大分、弁舌爽やかになっている。しかし、それを聞いた後に何か心に残るかどうかは別問題だ。目的に沿った内容を話すということが、実は言葉を貧しくしている可能性がある。
ケアのためにはおしゃべりも役に立つが、沈黙の時間を交えながらともにいてケアをするというあり方がかつては多かった。それとなく相手をケアしているということが、生きていることの意味の層を厚くしていたと思う。大きな家族の主婦のケアの行為は、きょうだいや子どもたちや孫たちの暮らしぶりによって報いられていた。
一人暮らしの高齢者でも若者でもよい。他者との交流は限られた目的のためのやりとりが中心になり、報酬が発生するようなケアと特定の娯楽をともにする以外は、自分のことをしているというような生活が増えている。これはもちろん寂しい。相互ケアによって生じるいのちの厚みが感じにくくなってくる。これはメンタルな辛さの大きな要因ではないだろうか。ケアし合う関係を構成していくことが重要になってくる所以だ。