井山弘幸

井山弘幸

ケニアの首都・ナイロビの路上本屋。さまざまな古書が道いっぱいに広げられて売られている。

(写真:佐藤秀明

分析のいきつくところ

AIの発達によりあらためて私たちが「知る」ということや「分かる」ということが何なのかを問われるシーンが増えている。「分析」は物事を知るためのスタンダードな手法の一つであるが実は弱点もある。人文学者の井山弘幸氏が思索する。

Updated by Hiroyuki Iyama on March, 24, 2022, 8:50 am JST

昨日沈んだ太陽は、今日昇ってくる太陽と同じか

見えるものに子どもは頗る興味を抱くのは確かだ。『枕草子』(能因本155段 うつくしきもの)にこんな一節がある。
「二つ三つばかりなる稚児の、急ぎて這ひ来る道に、いと小さき塵のありけるを目ざとに見つけて、いとをかしげなるお指にとらへて、大人などに見せたる、いとうつくし」
どれほど小さなものでも目にすれば拾いあげる。清少納言はゴミを拾った子どもを可愛らしいとべた誉めだ。これが稚児ではなく、陰険な姑ならばどうなのだろう。嫁御に無言で拾った塵を見せればかわいいどころか厭味でしかない。子どもが不可視のものを受け入れないのは、7、8歳くらいまでだ、と心理学者のピアジェは指摘した。あの有名な実験で……
子どもの目の前に水の入ったコップを置く。その隣に皿に盛った塩。確認してもらってから塩を水の中に沈める。かきまぜる。さあ塩はどこに行った?消えた!幼児にとって見えないものは存在しない。さきほどまで存在した塩は、今は存在しない。だから「いない、いない、ばあ」は驚きなのだ。英語圏にもあるようで peek-a-boo というらしい。

この実験はJ・ピアジェの『発生的認識論序説』の「保存と原子論」の章に出てくる。原著では塩でなく砂糖なので、消えてしまうことは子どもにとって残念なことに違いないのに、である。
ここからは私が実際に行なった実験での話。透明の食塩水を蒸発皿に移しバーナーで加熱する。さあ仕上げを御覧じろ。出現した塩の結晶に幼児は驚きを隠さない。いない、いない、ばあ、だ。さきほどの皿の塩と、いま目の前にある塩。同じだと思う?違うと幼児は答える。面白いね。でもこちらの答えの方が理にかなっているのではないか。溶解前の塩と蒸発皿に析出した塩とが、同じである証拠はないからだ。そうですよ。証拠はない。本当に。仮に放射性同位体でトレースしても同じこと。どちらもガイガーカウンターを鳴らしても、それが同一性の証拠だと子どもは信じない。魔法か何かの力で放射能のある塩が新たに現れたように思うだけだ。古王朝時代のエジプト人と同じ。昨日沈んだ太陽は、今日昇ってくる太陽とは別ものだと信じていた。太陽は死と再生を繰り返す。

この夜空の星の同一性は厄介な問題で、たとえば哲学者のフレーゲは、暁の明星と宵の明星が指し示すもの(Bedeutung)は同一だが意味(Sinn)は同一ではない、と言う。意味が違うのに指示対象が同一であることもまた、事実ではなく信念の問題になってくる。

中世の日本人はこの点、さほど悩むことなく、あっさりしていた。清少納言の曾祖父清原深養父のあの名歌。「夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月やどるらむ」(古今和歌集)。雲に隠れて見えなくとも月は存在すると考えていたことが分かる。当たり前か?
この話を幼児にしたらどう思うか、いつか試してみよう。

「ものは保存される」は、思想にすぎない

大人や7、8歳以上の子どもにとって、なぜ見えない塩はそこにあると確信できるのか?ピアジェの答えは簡潔だ。ものは保存される、という思想があるからだ。今あるものが消えたり、反対に何もないところから生命が発生したりすることはない。これは保存の思想であって事実ではない。かつて化学革命のときにラヴォワジエがおこなった質量保存の実験のように、塩と水の溶解前後の重さを測定する。天秤の方が効果的だが、算数が分かるならメトラーで数値を確認させる。ほら、見えなくてもコップ全体の重さは塩の重さの分だけ増えているだろう?これで説得できれば良いのだが、これはとても厳密な証明ではない。万有引力は無差別に働く、ということが前提になっているからだ。そしてこの見えない引力そのものを検出することはできない。りんごが落ちても、それは何も証明してくれない。

18世紀の西欧の自然哲学者はこの無差別性に疑問を抱いていて、とくに化学者は選択的親和力(elective affinity)の存在を信じていた。ミクロの世界にも好き嫌いがあって、相手次第で引きつけたり、斥けたりする。誰に対しても無差別に魅力(attraction)を感じるのではない。だから引力(attraction)以外に斥力(repulsion)が働く。だとすると、塩水の重さが増えたのは、別の原因かもしれない。ゲーテもその一人で小説『親和力』(Die Wahlverwandtschaften)のモティーフになっている。センセーションを起こしたこの不道徳小説は、主人公エドゥアルトと妻シャルロッテの間の親和力が安定せず、虚しい選択の振り子が妖しく揺れ動く。それならば神の恩寵こそ無差別な愛かと言うと、最後の審判での振り分け、天国と地獄の過酷なる選別。天国は万民を受け入れるには狭過ぎるだろうか。引っ張る相手を差別しない、という点で、ニュートンの万有引力の思想のもの凄さが分かるというもの。