井山弘幸

井山弘幸

ケニアの首都・ナイロビの路上本屋。さまざまな古書が道いっぱいに広げられて売られている。

(写真:佐藤秀明

分析のいきつくところ

AIの発達によりあらためて私たちが「知る」ということや「分かる」ということが何なのかを問われるシーンが増えている。「分析」は物事を知るためのスタンダードな手法の一つであるが実は弱点もある。人文学者の井山弘幸氏が思索する。

Updated by Hiroyuki Iyama on March, 24, 2022, 8:50 am JST

なぜ壊すのか、なぜばらすのか

先にふれた『枕草子』のつぎの章段(能因本156段 人ばへするもの)に、また子どもが登場する。

「あなたこなたに住む人の子の四つ五つなるは、あやにくだちて、ものとり散らし損なふを、引き張られ制せられて、心のままにもえあらぬが、親の来たるに所得て、あれ見せよ、父、母。など引き揺るがすに、大人どもの言ふとて、ふと聞き入れねば、手づから引き探し出でて見さわぐこそ、いと憎けれ」

さきほどの可愛らしい稚児から一転して、憎らしい子どもが物を散らかしたり壊したりする。しかも親にせがんだりして執拗だ。良く言えば探究心がある。子どもは油断がならない。引き裂いたり破ったりする。でもその理由は何だろう。破壊衝動の根源は何なのか。内部が気になるからである。ものには構造がある、という認識はゆっくりと育ってゆく。ばらばらにして内部を見て、破片や部品の手触りを実感する。見えない中身を「ばらす」ことで可視化する。「いない、いない、ばあ」の体験は、つぎの段階に歩を進めている。手を取り除けばそこに顔があるように、外皮の中には種が、菓子箱のなかにはお目当ての飴玉がある。知るためには障害物を除かねばならない。ばらすこともその一つである。この「ばらす」という行為は広義の分析に含まれる。分析は内部を覗きたいという願望から生まれた衝動である。

吐き気を催しても解剖を止めなかったレオナルド・ダ・ヴィンチ

分析とは「事物を部分に分かつこと」であり、不可視を可視化する一つの方法である、と同時に、優れた実験的方法の一つである。ティッシュ箱の中身をぶちまけたり、蓋のあるものは開けてみる。手先が器用になれば玩具やラジオも分解してしまう。もっとませた子供は解剖に手を染める。三島由紀夫の『午後の曳航』には憎らしいどころか、恐ろしい子供たちが登場する。ジャン・コクトーの『恐るべき子供たち』など比ではない。横浜山手を舞台に、ブティック経営の未亡人と恋人の船乗り。登は13歳の息子。登とその遊び仲間が陰惨な遊びを実行する話だ。憧れていた船乗りが陸にあがり母の共同経営者になる。凡俗に堕す男を許すことはできない。鉄槌を下すべきだ。まず猫で試してみてから、丘の上にある洞穴に男をおびき寄せ睡眠薬を混ぜた紅茶を飲ませ解剖してしまう。これは探究などではない。処刑とさえ言う。解剖の好奇心と残虐性はボローニャ大学医学部で解剖が解禁になって以来つねに人びとの心中に去来する二項対立である。

リューデスハイム
ドイツのリューデスハイムにて。有名なラインワインの名産地は、ライン川沿いの小さな美しい町である。

子供の頃のレオナルド・ダ・ヴィンチは昆虫の解剖が好きだったらしい。伝記映画『レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯』の第一部にそのシーンが挿入されている。解剖もまた分析の一種なのだ。スフォルツァ家に伺候したミラノ時代、「岩窟の聖母」を描いた頃のレオナルドは地下室で死体解剖を繰り返していた。「吐き気を催す」と書いている。それならばやめれば良いのにやめない。残された手稿には人体の骨格、筋肉の解剖図があり、眼球まで解剖されている。胎児が頭を下にしているスケッチもあるが、ということは妊婦の死体も解剖していたことになる。なぜそこまでやったのか。絵画制作にどのように役立ったかは分からないが、不可視の可視化という分析の本来の目的は達成されている。ミケランジェロもラファエロも絵を描くために解剖したりしない。解剖という分析行為が真実にいたる方法だと考えたレオナルドは希有の存在なのだ。だが真実にいたらず、混迷を招いた場合どうするか、これを考えねばならないけれど。