井山弘幸

井山弘幸

ケニアの首都・ナイロビの路上本屋。さまざまな古書が道いっぱいに広げられて売られている。

(写真:佐藤秀明

分析のいきつくところ

AIの発達によりあらためて私たちが「知る」ということや「分かる」ということが何なのかを問われるシーンが増えている。「分析」は物事を知るためのスタンダードな手法の一つであるが実は弱点もある。人文学者の井山弘幸氏が思索する。

Updated by Hiroyuki Iyama on March, 24, 2022, 8:50 am JST

分析成果の多くは事業化も理論化もされない

さて、長々と分析行為の史的概観をしてきたが、分析のいきつくところ、という表題に話を戻すことにしよう。繰り返し述べてきたことだが、分析あるいは分解は程よさが事前に分からない。トロイの遺跡の下の階層まで掘ってしまったシュリーマンのように、ここまで分解しようという限度、適切な深さを知るまでに時間がかかる。さらに限度が分かったとしても、分析して得られた情報データは、そのままでは有用な知識にはならない。むしろデータを解釈する理論が不在のまま、ハードディスク内の墓場に埋められているか、あるいは実験ノートの一隅に残され忘れ去られるものも多い。イノヴェーションの世界ではこうした分析成果の多くは、事業化はおろか理論化もされずにダーウィンの海に沈降して抜け出ることができない。

裸の王様に気がついた少年に、今は黙っているように諭し、大きくなってから無色透明の繊維について分析することを勧めよう。赤外線スペクトル分析で含有成分を調べるのもよい。あるいはこれも君には見えないものだけど、エコー検査やX線写真はどうか。王様の皮膚からの熱輻射の測定も忘れてはいけない。いや社会調査も有効な分析だ。いかさま機織り師の顧客名簿を入手して、過去の利用者からの聞き取りをするのも良し。どうか君の物怖じしない果敢な精神を、分析研究に注ぎ込んでもらいたい。でも、やり過ぎはだめだよ。

参考文献
空気の発見』三宅泰雄(KADOKAWA 2011年)
パスカルの隠し絵―実験記述にひそむ謎』小柳公代(中央公論新社 1999年)
『発生的認識論序説』J・ピアジェ(三省堂 1976年)
『解剖学者ドン・ベサリウス』ペトリュス・ボレル(沖積舎 1989年)
微生物の狩人』ド・クライフ(岩波書店 1980年)