井山弘幸

井山弘幸

(写真:WindAwake / shutterstock

集めることを、知ること、創ることにつなげるためには

ものを集めるということは知識の獲得の手段になりうる。「もの集め」をざっと一覧して、もの集めが、知ることや、創る行為とどのように関わりをもつのか考えてみよう。

Updated by Hiroyuki Iyama on April, 17, 2023, 5:00 am JST

収集から有益な何かを得るためには人為的な操作を加えねばならない

ニュートンが子供の頃を回顧して語った有名な言葉がある。

私は海辺で戯れる少年のようであった。ときおり、普通のものよりすべすべの小石を見つけ小綺麗な貝殻を拾っては悦に入っていた。真理の大海は、何もかも発見されざるまま、眼前に広がっているというのに。

――I was like a boy playing on the sea-shore, and diverting myself now and then finding a smoother pebble or a prettier shell than ordinary, whilst the great ocean of truth lay all undiscovered before me.

小石拾いに夢中になる少年だったニュートンは、後に『自然哲学の数学的原理』を著し天体の運行を支配する法則の存在を公表することになるのだが、後年、錬金術に没頭したことが知られている。最後の魔術師と呼ばれたこともあるし、贋金づくりに手を染めたとの噂もある。集められた鉱物の内奥に潜む「真理」を得るためには、鉱物を坩堝に入れ炉にかけて溶融、あるいは水銀とアマルガムを混成し、蒸留を用いて分離・分析する必要がある。収集したもの自体は真理を内部に隠していて、手を加えなければ何も語ってくれない。収集から有益な何かを得るためには人為的な操作を加えねばならない。レヴィ=ストロースの言葉を借りれば、浜辺の小石は「生のまま」の情報であり、それを「調理する」ことで知識へと変換しなければ役に立たない。

ニュートンはどうも万有引力だけでは、(天体の世界はともかくとして)物質の世界の多様な現象を説明できないと考えていて、凝集(引力)と分離(斥力)の原理を見つけるために錬金術に惹かれていったとも言える。だが残念なことに炉の火力をいくらあげてもミクロの世界の真理に至ることはなかったろう。18世紀には多くの自然哲学者が選択的親和力の真理をもとめ追随したが、見果てぬニュートンの夢に終わった。

物質の収集がさまざまな元素の発見へと導かれるためには、人類はもう百年待って、電気分解という強力な分析手段を得る必要があった。元素の探究と単離、収集が怒濤のごとく始まるのは産業革命以降の時代である。

化石のメアリーの時代には、一部から全体を構想する想像力が働いた

同じ石でも化石を集めることに熱中したメアリー・アニング(Mary Anning,1799 – 1847)の場合は事情が異なる。メアリーはイギリス南部沿岸ドーセット州のライム・リージス沿岸で、子供の頃から懸命に化石を探しては収集した。この地域は現在ジュラシック・コースト(Jurassic Coast)と呼ばれ、2001年にユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録された化石ハンターの聖地である。中生代のジュラ紀の地層であると後に比定されるが、好事家相手に化石を売ることで生計を立てていたアニング家では、そんなことはどうでも良かった。メアリーは貧困のため学校に行けずに、半ば家業であった化石収集をしていたのである。18世紀末頃より化石は富裕層の骨董趣味のために宝石に匹敵する貴重で高価な商品アイテムとなっていた。

メアリーは12歳の時にイクチオサウルスの全身化石を発見する。これは中生代に巨大な爬虫類である恐竜が棲息していたことを示す、重要な発見であった。彼女は更に別の恐竜イクチオサウルスの化石も発見している。収集行為が端的に発見に結びつく例である。

(写真:Alizada Studios / shutterstock

鉱物の収集とは対照的に、この時期の古生物学は一部の身体器官の化石から全体像を想像し、復元することに関心があった。即ち、分析よりは綜合に興味がもたれた。たとえばイグアノドンIguanodon)は当時化石が見つかった恐竜だが、この名前は文字通りトカゲ(Iguana)の歯(don)に由来する。1822年頃に化石マニアのギデオン・マンテル医師(Gideon Algernon Mantell、1790 – 1852)が工事中の道路で巨大な歯の化石を発見したことが事の始まりである。一本の歯の化石から全体を構想する想像力は、執念を感じるほどの凄まじいものである。全身骨格は1878年にベルギーのベルニサール炭鉱で発見された。

原型となる理論がなければ、集めることは、知ることにも、創ることにもつながらない

石集めの話題をもう一つ建築分野から。時は1879年のフランスの片田舎オートリーブ。郵便配達夫のフェルディナン・シュヴァルは、算盤のような楕円球が重なる珍しい形状の石を偶然見つけた。シュヴァルは配達の途中でこれを集めては家に持ち帰って庭先に積み上げ、33年の歳月をかけて宮殿のような石造建築を完成させた。地下に墓所を設け死後に埋葬されることを望んだが、かなわなかった。この宮殿はブルトンをはじめとするシュルレアリストたちに激賞され、死後半世紀近く経ってからマルロー文化相の奔走もあって、フランスの重要建築物に指定された。現在は観光地となっていて、シュヴァルの肖像、宮殿の絵入りの土産物が販売されている。

(写真:MagSpace / shutterstock

さてその建築様式であるが、建築の素人である郵便配達人のシュヴァルにできたことは、新聞や雑誌で当時見ることのできた写真を真似て、時代については一貫性のないスタイルで造形することであった。とは言え評者たちの感想を読むと宮殿全体には不思議な統一感があり、どことなくアンコールワットボロブドゥールを連想させる雰囲気をもっていた。

――私は自分の考えをまぎらすため、夢想の中で、想像を絶する幻の宮殿を、並の人間の才能が思いつく限りのもの(洞窟や、塔や、庭園や、城や、美術館や彫刻)を建て、原初の時代の古い建築のすべてを甦らせようとしたのだった。その全体は、とても素晴らしく、絵のようだったので、そのイメージは、少なくとも十年間、私の頭の中にいきいきと残った。けれどこのような計画は、私にとって、ほとんど実現不可能なものだった。夢から現実への距離は大きい。なにしろ私は、左官の鏝(こて)にも、鑿(のみ)にも、へらにも、これまで一度も触れたことがなかったのだから。私は、建築の規則などまるで知らなかった。
(『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』岡谷公二 河出書房新社)

やはり収集したものをそのまま保存するだけでは、創ることにつながらない。彼は夢想の青写真をもとに拾い集めた小石に秩序を与え、壮麗な建造物にまで仕立てあげたのである。この青写真に相当する、原型となる理論がなければ、集めることは知ることにも、創ることにもつながらないのである。この素敵な物語は2018年には映画化、公開されている(『シュヴァルの理想宮 ある郵便配達員の夢』)。

「ただの石ころ」は永遠に石ころだが……

歴史に残る精緻な建築作品を残したシュヴァルと比べては申し訳ないのだが、ただ集めるだけでは収拾がつかなくなった滑稽な例をここで補っておこう。竹中直人監督・主演で1991年に映画化された「無能の人」である。原作はつげ義春の漫画で「石を売る」に始まる連作だ。物語を簡単に説明すると、主人公の助川は、あれこれと商売に手を出すが、ことごとく失敗してしまう。中古カメラ業や古物商、どれもうまく行かない。挙げ句の果て、多摩川の河原で拾った石を掘立て小屋に陳列し、石を売る商売を始める。シュヴァルのような人目を惹くような美術品のような石とは全く違う。ただの河原の石である。もちろん売れることなく、挙げ句、風吹ジュン演じる妻に馬鹿にされるも、諦めない根性だけは持ち合わせている。石を売ることは助川の夢であった。渡し船を営業し、河原では店を出し飲料や甘酒を売りながら、好きな石を並べることは彼なりの多角経営だった。挫折した助川は「美石協会」のオークションに出品したが、とうとう売れずに終わる。

墓石だとか庭石ならば実際に流通しているのだから、河原の石を拾い集めて売るという発想は決して悪いわけではないし、単に市場が開拓されていなかっただけの話とも受け取れるけれど、「無能の人」のタイトルが意味深長に響く。ただの収集に何らかの知恵を施さねば、「ただの石ころ」は永遠に石ころのままなのだ。

落語の三代目桂米朝の名演が懐かしい「はてなの茶碗」はこれに重要な示唆を与える。江戸落語では「茶金」である。京都清水寺の音羽の滝のほとりで、油屋が茶屋で休憩しているとそこに有名な茶道具屋の金兵衛、通称「茶金」が腰かけているではないか。見ると茶金は茶碗のひとつをひねくり回し、しきりに「はてな?」と首をかしげる。これを見て何かあると早とちりした油屋は、あの茶金が注目したのだからさぞかし値打ちがあろうとその茶碗を買いいれる。嫌がる店主に大枚二両を払う。鑑定を頼もうと茶金を訪れると、何のことはない「はてな」の理由は茶碗から湯が漏れ出ることにあった。三両もらって慰められ油屋が帰ると、この一件、京の街の噂となり実見した関白鷹司公が「清水の 音羽の滝の 音してや 茶碗もひびに もりの下露」と歌を詠む。とうとう時の帝の知るところとなり、帝が手にとると、やはり茶碗から湯が滴る。御裾を濡らしたのを興じて、茶碗に帝御自ら「はてな」の箱書きを加えると、しまいには好事家の鴻池善右衛門が千両の値をつける、という噺である。

量産品の二束三文の茶碗であっても、由来と権威が加わると名品となる。収集品に加える理論的解釈の一つの例である。

集められただけの標本に、進化論の解釈を与えて整理したダーウィン 

進化論の提唱者として同時発見の好個の事例としてとりあげられることの多いダーウィンウォレス。二人とも標本の収集が新理論の発見の基礎となっていることで共通している。共通しているとは言え、ダーウィン家の犬の餌代の方がウォレスの収入よりも多かったと噂されるほど経済状況は雲泥の差であった。

まずはダーウィンから。1831年ダーウィンはケンブリッジ大学を卒業するとすぐに、英国海軍の探検艦ビーグル号に乗船し、世界周航の旅に出る。この時彼の心づもりでは、世界中の岩石、特に南米の岩石の性質を研究したいとのことであった。出版されたばかりの地質学のバイブルともなるライエル(1797-1875)の『地質学原理』(Charles Lyell,  Priciples of Geology,  1830-33)を船に持ち込んで狭い船室のハンモックで揺られながら読みふけっていた。ライエル学説の中心的思想は、斉一説(uniformitarianism)にあった。

「Charles Darwin」 Date:1868 Artist:Julia Margaret Cameron (English, 1815–1879)  The Art Institute of Chicago.

この思想は、現在の地球が火山爆発や隆起や洪水などの天変地異によってできた、とする激変説(catastrophism)に対抗した形で登場した、新しい地球形成の理論でもある。現在起きつつある軽微な変化でも、それが何億何千万年と積み重なると、大規模な激変に匹敵する変化を地球に及ぼすだろう、という考えにダーウィンは瞠目した。この航海は彼にセレンディピティーを与えたことになるのだが、それでも南米の寄港地では岩石標本の採集をおこなっているから、彼もまた「石集め」をしていたのだ。ビーグル号は西アフリカ沖のヴェルデ岬諸島を通ってリオデジャネイロを通り、ホーン岬で南アメリカ大陸を回って北上し、リマに寄港してから、有名なガラパゴス諸島に寄っている。ここではフィンチの標本採集やゾウガメの甲羅の文様のスケッチを行ない、それらの生態学的および動物学的観察がいかなる霊感を彼にもたらしたのか、本人の言葉を少し引用していこう。

――陸鳥については、私は26種を得た。すべてこの群島に独特のもので、他で見られなかった。北アメリカ産のヒワの一種で、雲雀に似たもの(Dolichonyx oryzivorus)は例外で、これは北アメリカ大陸では、北緯54度の北まで分布して、一般に沼地に出没している……私はこの群島の博物について、最もすぐれていちじるしい特色をまだ挙げていなかった。それはそれぞれの島に、それぞれ異なった生物の群が相当に多く棲んでいることである。副知事のロースン氏が、亀は各々の島によってそれぞれ異なっており、彼の面前に持って来れば、どの島のものか確かに判別すると断言したことで、私ははじめてこの事実について注意した。そして既に二つの島からの採集品のうち、一部分は一つに混ぜてしまった後であった。私はこの島々がそれぞれ約50、あるいは60マイルを隔てて、大概は互いに視界のうちにあり、まさしく同種の岩石から成っており、全く同様な気候の下にあり、ほとんど等しい高度をもっているので、島々の住者がそれぞれ異なることは夢想もしていなかった。

鉱物に動物標本の収集が博物学者としての任務であったが、ライエルの斉一説の知恵を借りてただ集められただけの標本の多様性に、進化論の解釈を与えて整理することができたところにダーウィンの卓越性を感じる。

「計画的な収集」でダーウィンよりも早く進化論の論文を書き上げたウォレス。しかし、運が悪かった

他方、ほんの数ヶ月の違いでダーウィンよりも早く進化論の論文を書き上げることになるウォレスはどのような収集活動から進化論にいたったのだろう。

1837年の時に学校をやめて、兄たちの仕事を手伝い始める。大学出身の学者ではない。14歳の時だから、中学校を途中で終えたことになる。以後公教育は受けていない。2年後に『ビーグル号航海記』 が出版されているから、二人の経歴の開きは天地の差があった。

1846年から測量の仕事を始める。不労所得のあるダーウィンとは階級が違い、糊口をしのぐ必要がある。翌々年からアマゾンへ探検に出発し、帰国後『アマゾン、リオ・ネグロ紀行』『アマゾンのヤシの木』を刊行した。探検家と言っても昆虫採集をして研究のかたわら標本づくりをする職業的な動機があってのことで、後にダーウィンの働きかけがあって政府から年金を下賜されるまでは、重要な収入源であった。1854年新進の探検家として、ダーウィンに紹介された直後にマレー諸島に出発。1855年2月ボルネオで「サラワク法則」を書き、専門誌 Annals and Magazine of  Natural History 9月号に掲載され、学者としてのデヴューを飾る。二人の命運を分ける「自然選択」のアイディアから蝶の標本分布を解読した歴史的な論文「テルナテ論文」を書いて、1858年にダーウィンに送る。この二人の進化論学者の先取権についてはここでは詳しく述べないが、結果的に学会発表時にマレー群島で採集活動をしていて同席できなかったことが運命の別れ道だったのかもしれない。ダーウィンと違って、ウォレスは収集した昆虫標本をかなり早い時期から進化論の発想をもって眺めていた。近接した棲息領域では、種同士の関連が深いという仮説を検証しようと意図的に調査計画を立てたりしていた。

最後に友人のベーツ宛にダーウィンに認めて貰ったことの喜びを伝える手紙の一部を読んでみよう。

“ウォレスからベーツ宛書簡(1858年1月4日付) あの論文は、いうまでもなく、一つの学説を予告したものにすぎず、これからそれを展開しなければなりません。ぼくはすでにその計画を立て、この問題全体を網羅する本の一部を書き始め、まだ示唆しただけにとどまっている論点を詳しく論述しようと頑張っています……ダーウィンからぼくの論文のほとんど一言一句に同意してくれるという手紙をもらい、とても喜んでいます……ダーウィンが自然界において種の起原と変種の起原のあいだに違いがないことを証明してくれたなら、ぼくはもうこれ以上苦労して自分の仮説を書き進めなくてよくなるのですが……あるいは、別の結論に達して僕を困らせるかもしれません。いずれにしても、彼はぼくが心を動かされるような事実を提供してくれるでしょう。“

「計画的な収集」という彼のスタイルが、収集を発見や創造に結びつける一つの有力な方法であることを裏書きしている。だけれど、この後に起きた「微妙な調整」で進化論の先取権を奪われた事情を読むと胸に迫るものがある。

以上、ニュートンの小石拾いから始まって収集のエピソードを一覧したけれど、単なる収集とか闇雲に集めるだけでは、そこから何かは生まれえない、ということを確認できたように思う。

参考文献
ニュートンと贋金づくり―天才科学者が追った世紀の大犯罪』トマス・レヴェンソン 寺西のぶ子訳(白揚社 2012年)
『メアリー・アニングの冒険──恐竜学をひらいた女化石屋』吉川惣司、矢島 道子(朝日新聞社 2003年)
郵便配達夫シュヴァルの理想宮』岡谷公二(河出書房新社 2019年)
無能の人・日の戯れ』つげ義春(新潮文庫 1998年)
『古典落語 選』興津要編(講談社 2015年)
『ダーウィンに消された男』アーノルド・C・ブラックマン 羽田節子、新妻昭夫訳(朝日新聞社 1997年)
ビーグル号航海記』 チャールズ・ダーウィン 島地威雄 訳(岩波書店 1959年)
『マレー諸島―オランウータンと極楽鳥の土地』A・R・ウォーレス 新妻昭夫訳(筑摩書房 1993年)