暮沢剛巳

暮沢剛巳

浅草の羽子板市。年末に開かれ、客は縁起物として羽子板を買っていく。価格が表示されていないこともあり、店の人の口上を楽しみながら買い物ができる。

(写真:佐藤秀明

過去のものといえども、
真に価値あるものは、
常に新しさを含んでいる

大量のデータから価値を見つけ出していく工程では、キュレーションの考え方が参考になるだろう。ここでは、ありふれたものに価値を見出した「民藝」の概念を生み出した柳宗悦のはたらきを紹介する。

Updated by Takemi Kuresawa on January, 25, 2022, 0:09 am JST

美をもって内と外を串刺しにする

「第5章 ローカル/ナショナル/インターナショナル」は民藝が併せ持つ3つの側面が主題化されている。このうちローカルに関しては、もともと民藝は土着的、土俗的なものなのでローカルなのは当然として、他の2つには違和感を覚える者もいるかもしれないが、ここでの展示は柳の視点がこの三者を串刺しにするものであったことを明らかにしている。

最初に目を引くのが、芹沢銈介の「日本民藝地図(現在之日本民藝)」という作品だ。柳が全国各地を訪ねて多くの工芸を蒐集したことは既に述べた通りだが、旅の軌跡に従って日本全国を5色に色分けして各地の工芸を細かく書き込んだその地図は、柳が民藝を特定の地域に帰属するものではなく、日本全体の問題として考えていたことを示している。各地の土着の工芸を調査して回る旅には、確かに日本の工芸像の追求という一面があった。1930年代に柳が日本文化の対外宣伝を目的とした雑誌「NIPPON」やKBSニュースの取材に応じたのは、他でもない彼自身がその必要を実感していたことを示している。

東京出身の柳にとって、遠く離れた沖縄や異民族であるアイヌの工芸に接することは、海外の工芸と接するときと同様の緊張感を孕んでいたに違いない。この展示では、柳が写真や映像という新しいメディアを駆使して沖縄の生活を紹介しようとしたことや、アイヌの工芸にも強い関心を寄せていたことが紹介されているほか、東北に関しても、柳としばしば対比された柳田國男の「経世済民」という視点を交えて紹介している。これら日本国内の「内なる境界」に向けられた柳の関心は、決して民俗学や考古学を背景としたものではなく、あくまで美に根差したものであった。

一方、柳の関心は日本の「外」にも向けられていた。柳はもともと西洋美術の愛好者でもあり、また以前には朝鮮で美術館の建設のために奔走したことはよく知られている。この展示ではそうした「外」への視線も強く意識しており、若い頃に深い関りのあった朝鮮のほか、台湾や満洲を訪れた際に行った調査や蒐集した作品も紹介されている。当然のこととして、1930~1940年代のこれらの地域との関わりに触れる以上、当時の日本の植民地主義の問題を避けて通ることはできない。この展覧会では、多くの作品を借りる以上は当然のこととは言え、民藝館の公式見解と矛盾しない範囲ではあるが、可能な限りこの問題にも踏み込もうとしていたように見受けられた。

なおこの展覧会の終盤では、晩年の柳が会場である東京近美を痛烈に批判していた事実が紹介されている。「国立」「近代」「美術」が「西洋の眼」を標榜しているのに対し、自らの創設した日本民藝館は「在野」「非近代」「工芸」を以って「日本の眼」の側に立つというのがその要旨であり、ローカル/ナショナル/インターナショナルの三者を串刺しにしようとする視線がここにも発揮されている。

キュレーションとは、情報を組み替えて新しい価値を創ること

2021年に出版した拙著『拡張するキュレーション』で、私は1章を費やして民藝を論じた。といっても、別に既にいくつか前例のある民藝を下敷きにした現代アートの展覧会を企画しようとしたわけではない。私が注目したのは、柳が全国各地を訪ねて回って蒐集した数多のアノニマスな日用品が「民藝」として再編されていったプロセスである。もともとは美術品や文化財としての価値もなければ、市場価値もほとんどないそれらの「下手物」は、柳の眼を経て収集されることによって初めて、「民藝」という独自の価値を持った工芸品へと変換されていった。このプロセスは「情報を組み替えることによって新しい価値を創る」という私のキュレーションの定義にそっくりそのまま当てはまる行為であり、であればこそ柳の標榜した「創作的な蒐集」をキュレーションという観点から語れるのではないかと思った次第である。