編集としての民藝
「民藝100年展」を見た私は、この展覧会もまたキュレーションという切り口から語り得ることを確信した。従来の民藝展と比較して、この展覧会の最大の貢献はやはり「編集」という視点を導入したことであろう。繰り返すが、編集とは様々な情報を収集し取捨選択して誌面に的確にレイアウトすることであり、その作業には展覧会企画と共通する面が少なくない。展覧会企画が作品=モノを対象としたキュレーションであるなら、編集もまた言語を対象としたキュレーションである(参考までに挙げておけば、拙著が出版されて間もなく行われた私とのオンライン対談で、吉見俊哉は私の提唱するキュレーションが松岡正剛の提唱する編集工学と類似していることを指摘している)。柳が編集と展示を同様の次元でとらえようとしていたというこの展覧会の見立ては、対象が言語であれモノであれ、情報を組み替えて新しい価値を生み出す行為は等しくキュレーションであるという私の立場と大いに重なり合うものであるし、民藝をローカル/ナショナル/インターナショナルの串刺しでとらえる視線も、情報の組み換えとしての編集の為せる 業だろう。
二束三文の下手物が民藝と読み替えられることによって価値の高い工芸品へと変貌したという内容は、拙著を読んだある知人から、民藝はまるで錬金術のようだと指摘されたことがある。錬金術という言葉の疑似科学的なニュアンスに強い抵抗は感じるものの、価値の低いものを高いものへと作り変えるという一点に注目すれば、私の提唱するキュレーションにそうした側面はあるのかもしれない。とはいえ、「新しい価値を創る」という提言がそのように一面的に理解されてしまうのはやはり不本意なことである。同じく民藝を通じて新しい価値を作り出すことが、全く違った手法によっても可能であることを最後に一例だけ紹介しておきたい。
拡張するその定義
2022年の正月、私は「かわ善い民藝 いとお菓子」というeテレの情報番組を見た。番組の趣向は、2人の女性(1人は女優、もう1人は料理研究家)が各地の菓子屋を訪ねて回り、民藝の影響をレポートするというものであった。民藝と言えば、多くの者は日用的な工芸品を連想するだろう。民藝の尊ぶ「健康の美」や「平常の美」が長い年月を生き延びてきた品々によって継承されてきたことを思えばそれは当然のことだ。食べられた時点で跡形もなく消えてしまう菓子に同様のエッセンスを認めるのは難しいように思われるが、しかしこの番組では、生前の柳が愛好していた菓子店をはじめとして、様々な店の内装、容器や包装紙、何よりも主役の菓子やその作り方の流儀に民藝が息づいている様々な事例が紹介されていた。一般的な和菓子が民藝の流儀を導入することによって新しい価値を獲得しているのだとすれば、それもまたキュレーションの成果に他ならない。
「かわ善い」はもちろん「かわいい」と「善い」を掛け合わせた造語であろう。何年か前に「かわいい」という切り口で企画された民藝館の展示を見たことを思い出した私は、「かわ善い」いう切り口の妙に感心すると同時に、民藝がこのような形で関心を持たれていることに、戦後3度目の静かなブームが到来していることを実感したのだった。