松村秀一

松村秀一

福島の大内宿。英国の女性旅行家イザベラ・バードもこの地を訪れたという。2019年ごろ撮影。

(写真:佐藤秀明

彼女たちはなぜ大工になったのか。女性職人とのダイアローグ

松村秀一氏は「建築と都市の危うい基層 ものづくり人はどこへ行ったのか」のなかで大工が急激に減少しており、それが日本の建築文化の基層を危うくしていることを指摘した。
しかし、建築文化の未来を考えるうえで希望が見える現象もある。女性たちの活躍だ。増えつつある女性大工たちの声を聞いた。

Updated by Shuichi Matsumura on March, 7, 2022, 8:50 am JST

小さい頃から大工に憧れていた人たち

今回は、彼女たちが大工になった経緯について語った内容を紹介しておきたい。総じてものづくりが好きだからとか、体を動かす仕事が性に合っているとかいう人が多かったが、事情はそれぞれである。先ずは幼い頃から大工に憧れていたというユキエさん(仮名)から。

【長野県のユキエさんの話】
初めは小学校の頃、近所で建て方をやっている大工さんの姿に憧れて。その時点では大工になりたいというわけではなくて、良いなという気持ちでした。そしてしばらく経って、高校生の時に、先生が技術専門学校というところがあるよと他の人に言っているのを小耳にはさみ、調べてみて「ああ良いな」って。その時に、ふと小学生の時の光景を思い出しました。そう言えば、かっこいい大工さんって最近見ていないから、自分がなっちゃおうと思いました。それで、高校卒業後に技術専門学校の大工科に入りました。

入学時に同級生は20名近くでしたが、卒業できたのは1桁です。その中にもう一人女性がいましたが、彼女は大工にはならなかったですね。大工科では座学と墨付け・刻み(柱や梁の継手仕口等の加工)の実技が主です。それが滅茶苦茶楽しかった。そうして1年が経ち、専門学校に来ていた求人を見て、今いる会社でのインターンシップを経て社員として入社しました。今は入社7年目になりましたので、現場も何件かやっています、親方として。後輩もどんどん入ってきたので、今は26歳ですが中間位の立場になっちゃっています。後輩はみんな男性ですが、色々教えています。

次にやはり幼い頃から大工に憧れていたというミユキさん(仮名)の話。

【山梨県のミユキさんの話】
私の父と祖父が大工で工務店をやっていまして。祖父母の家が加工場と兼用になっていて、その家に泊まった時に、父や祖父が加工場で柱や梁の加工をして道具を扱う姿がかっこいいなと憧れを持ちました。自分もああいう風になりたいなと。この気持ちは保育園の時からずっと変わりません。2人の兄が家業を継がなかったので、そのうち自分が継ぐのかなという考えは持っています。

中学卒業後に迷わず工業高校の建築科に入って、高校卒業後はすぐに今の会社に大工として就職しました。工業高校の建築学科の同級生は40人程で女性は9名。大工になったのは私だけです。他の女性は設計か、大学に進学したか、建築とは全く関係ないことやっているかですね。私は初めから大工志望ですが、母親から家の工務店に入るのは世間知らずにもなるし甘えにもなるから外に出なさいと言われて、色々な大工さんから教わることも良い経験になると考え、他の工務店に社員大工で入る決断をしました。ただ、高校に来る求人の中で「女子可」というのがなかなかなくて。大工の場合、大体「女子不可」と書いてある。そこで先生に相談して、今の会社を紹介してもらったのです。入社して1年半ですが、楽しくやらせて頂いています。

諏訪大社
諏訪大社。全国にある諏訪神社の総本社。上社には本宮と前宮、下社には春宮と秋宮があり、信仰を今に繋ぐ。2010年撮影。

次は幼い頃から古い木造建築が好きだったというサオリさん(仮名)の話。

福岡県のサオリさんの話】
私は子供の頃から日本の古い神社仏閣や古民家が好きでした。それで大学にそういう学科があったので入学して、古民家等を見学している時に、これはどうやってつくられているのかなということに興味が湧き、自分でもつくってみたいなと思って大工になりました。今働いている工務店は、古民家再生もたまにやるようですが、私が入ってからはまだそういう仕事はありません。ただ、今の普通の木造住宅のように全自動加工機械による継手仕口の加工は使わず、伝統構法に沿った墨付け・手刻みをしています。それを、私も含めて5名の大工でやっています。私以外は全員一人親方です。私は初めての社員大工ということです。色々な面で社員として雇ってもらえる方が良いなというのはありました。入社してまだ1年半ですが、ここで伝統構法の基礎的なことをきちんと学んで、将来は古民家再生ができるようなところにも行ってみたいなと思っています。

次は小学生の頃に見たテレビ番組で大工を知ったというナミさん(仮名)の話。

【福岡県のナミさんの話
私はテレビですね。「ビフォーアフター」。中学に入る前に見て、大工という職業があるのを知ったんです。それでもう、小学校の卒業文集の「将来の夢」は大工。決意は固かったですね。中学に入ってすぐに次は建築科のある工業高校に入ろうと思っていました。工業高校の建築科に入ってみたら、同級生40名の内、女性は12名。その中で大工になったのは私だけ。他の人は設計事務所とか、現場監督とかですね。今の職場は高校時代に求人を見て、ここが良いなあと思って決めました。ポイントはインスタの写真。それがかっこよかったんです。

次はお母さんと住宅展示場に行ったのがきっかけというマコさん(仮名)の話。

【新潟県のマコさんの話】
母が住宅展示場をまわるのが趣味で、それに付いて行ったのがきっかけで、建築に興味を持っていました。小学校ではもう大工になりたいと思っていましたが、同級生から女性に大工は無理ではないかと言われて、女性でもやりやすい建築関係の仕事として、設計の方に進みたいと思うようになりました。ただ、数学や理科が得意ではなく、希望している大学の建築学科に進めないかもしれないと思いました。親からは文系を勧められましたが、やりたい仕事ではないと思い、「そういえば大工があった」ということで、親を説得してテクノスクールに行くことにしました。テクノスクールに入ってみて、自分に合っていると感じました。家が建つ光景が好きで、家をつくる仕事こそやりたかったことだと思いました。ただ、同級生で女性は私だけでした。

テクノスクールを出た後は、父の知り合いの関係で今の会社で先ずインターンをやりました。当初は社長から、大工よりも設計向きなのではないかと言われ、インターンとして設計に1週間、大工に1週間入らせてもらいました。設計では、お客さんに渡す模型をつくったり、パソコンでCADを扱ったりしました。大工の現場では、下小屋で木材を加工するなど実際に使う木材を扱いました。両方やってみて、やはり自分には大工が合っていると感じました。

次は中学生の時に宮大工に憧れたというエリさん(仮名)の話。

【秋田県のエリさんの話】
中学校2年生の時に、テレビに宮大工の女性が出ていて、日光の伝統木造建築の修復作業をされていました。それを見てかっこいいなと思い、私もやりたいと思いました。元々は、中学校を卒業したら働こうと思っていて、ある工務店の社長さんに話を聞きに行ったんです。そうしたらその社長さんが技術専門学校を教えてくれたので、2年間そちらの建築工芸科に行きました。休日には通信制にも行けるので、同時に通信制高校にも通っていました。技術専門学校の同級生は5人でした。女性は私一人でした。2年間、座学と継手仕口等の加工の実技を習いました。そして、宮大工をやっていた先生の紹介で、宮大工系の仕事をしている今の会社に入りました。そういう会社ですから、継手仕口等も機械加工ではなく、墨付けと手刻みをやっています。元々私はそれをやりたかったし、やはり好きです。