村上陽一郎

村上陽一郎

ロシア軍に破壊されたキエフの住宅地でブランコに乗る子ども。

(写真:Drop of Light / shutterstock

夢想だにしなかったことが起きてしまった世界で

ロシアによるウクライナへの侵攻。21世紀に起きた驚くべき事態に、科学哲学者・村上陽一郎氏は今何を見るのか。

Updated by Yoichiro Murakami on March, 18, 2022, 8:50 am JST

「私たちは彼に投票しなかった。」

ところで、ウクライナから届いたあるインテリ市民の便りは、ちょっと形容が難しいほど、深い印象を与えてくれました。書簡は「私たちは彼に投票しなかった。」という一文で始まります。そして「今は、心底から、間違っていた、と思っている」と続くのです。無論「彼」というのは、ゼレンスキー大統領のことです。ウクライナの知識人の相当数が、今そんな思いを抱いているのではないか。そんな風に思います。

ウクライナの国旗に包まれた女性
ニューヨークで行われた抗議デモでウクライナ国旗を見にまとう女性。(Ameer Mussard-Afcari/Shutterstock.com)

また、この点は、一つの仮説を導きます。プーチンの頭の中にあったゼレンスキー像も、このようなウクライナ市民の過去の評価と同じだったのではないか。つまり、ゼレンスキー氏は、すっかり見くびられていて、一揉みすれば、あっという間にウクライナ市民はプーチン様に平服するか、そうでなくても、あの指導者の下では、ウクライナの国民が、大統領に忠誠を誓って、わが身や財産を犠牲にするほどの抵抗を見せるはずはないだろう、というのがプーチンの思惑だったのではないか。無論、その前提には、ウクライナは本来ロシアの版図の一部に過ぎず、その一部地方に反逆的な政権が出来て、是正する必要がある、という想いもあったには違いないでしょう。「我々は戦争などはしていない」というロシア側の、通常の頭脳と神経では全く理解できない発言も、そんな風に考えてみれば、多少は辻褄があってくるかもしれません。要するに、今のゼレンスキー大統領の英雄的な言動は、皮肉なことに、ロシアが、この愚挙に踏み切ったために、その「真価」を表出させることになった結果ではなかったか。そんなことを思わせます。

もっとも、このような客観的、と言えば奇麗に聞こえるにしても、他人事のような発言は、今のウクライナの市民たちの置かれている苦境に、何の足しにもなりません。彼らのために、何ができるか、もどかしさの方が先に立ちます。国際的な支援窓口がすでに幾つもできています。「私たちのためにロシアと戦ってくれとは言いません、ただ、医療、食糧の助けは欲しい」という切実な声が届く度に、心が痛みます。