家庭アルバムの歴史主義時代
「故郷の精神誌」の要所には、人類学者・鶴見良行の「家庭アルバムの原型」(1965年)が引用されている。鶴見はこの論文は、日本人と写真の関係性、日本の近代社会に写真がもたらした民俗性を、丹念に叙述した優れた論文だと言えよう。
写真の技術が日本に輸入されたのち、人々を写真館に向かわせた動機はふたつあった、と鶴見は言う。その第一は、「人口移動による動機」で、維新の志士が家族や知友に遺した写真にはじまり、都会への遊学、就職のための移動、商用上の旅行、さらに明治元年(1868)の奥羽戦争をはじめとする国の内外での戦争時の出征にあたり、家郷に残し、あるいは家郷に送るために移動先で撮影したものである。
内容は出生、七五三、入学と卒業、就職、徴兵検査、結婚、出世、還暦、死亡など、その人の一生の区切りを軸としたもので、「日本が近代化の途上において採用した義務教育制度や国民皆兵制度によってもたらされたものが多い」という。そうして鶴見は、これらの記念写真は、伝統的な日本人の民俗思想や先祖崇拝とも結びついているとみている。
ある特定の日を選んで多くの写真が撮られたのは、一年のサイクルや一生のサイクルといった「晴(ハレ)」の日を軸とする螺旋的な時間認識によるものであり、明治から1935年頃までの日本人の家庭アルバムは、このような写真で占められる。
「これは、永い人生の行程の一瞬一瞬を充実して生き、それを表現しようとして撮られた写真ではなく、一段登りつめるごとに前を仰ぎ、後をふりかえって撮る記念写真であるから、この時代を家庭アルバムの歴史主義時代と呼ぶことができる」と鶴見は言うのだ。
「芸術至上主義的発想」による撮影行為
こうした鶴見の論述を受けて坪井は、特定の状況にふさわしい盛装をし、緊張した面持ちで撮られたこの時代の写真は、人生の到達点や移行段階を示そうしていて、健康、出世、 富貴、名誉、長寿などその人の「晴」の姿を演出することが試みられているという。
しかし、大災害に遭った狛江市や長野市の人々が探し求めた家庭アルバムは違った。そこに貼られているのは、人口移動の契機や生活の区切りの思想による非日常を迎えるため、営々とした生活を送るなかで撮られた日常的写真が多いのである。
人間関係が多様化し、写真を撮る空間や時間が拡大され、「晴」と「晴」をつなぐ日常生活に意味を求め、それによって「晴」の写真にいたる経過を説明するライフ・ヒストリーの性格を強く持つものとなっていったこのような家庭アルバムを、鶴見は「芸術至上主義的発想による家庭アルバム」と呼んだ。
日本では1981年にカメラのショット数がアメリカ合衆国を抜いた日本の国民は、生活を記録し、表現しようとしたのだったが、「芸術至上主義的発想」は21世紀の現在も、姿を変えて受け継がれているのではないだろうか。