戦後日本と「カメラ」の盛衰
1963年4月に小西六写真工業(のちのコニカ、現コニカミノルタ)が、世界初の自動露出カメラ(AEカメラ)「コニカ AutoS」を発売。1977年11月には、同じく小西六が世界初のオートフォーカスカメラ「コニカ C35AF」を発売した。このカメラは「ジャスト・ピント」の意味から「ジャスピンコニカ」という愛称で宣伝され、女性を含む幅広い層に受け容れられていった。
1986年7月、富士フイルムが販売を開始したレンズ付きフィルム「写ルンです」の一大ブームがあり、また1993年10月にはキヤノンが「EOS Kiss」を発売、小型軽量かつ低価格化で、女性を中心に一眼レフカメラユーザーを拡大した。
そして、カメラ付き携帯電話の登場である。そのルーツとして、1999年にDDIポケット(現・ワイモバイル)より発売された機種もあったが、2000年10月にシャープ製携帯端末「J-SH04」が商品化され、J-PHONE(現ソフトバンクモバイル)から同年11月に発売されてから爆発的に普及していく。2001年には「写メール」という造語が考案され、2003年には日本国内で「カメラなし」携帯電話は駆逐されてしまった。
かつては、家族アルバムに貼られる写真は、カメラの所有者である父親が撮るものだと決まっていた。1981年に数えられた年間54コマも、おそらくそのほとんどは父親が撮影したものだったろう。しかし、80年代後半以降、写真は成年男性だけではなく、女性や若年層、そしてカメラ付き携帯の登場により、低年齢化が進んでいるのではないか。またフィルムを必要とせずデジタルで記録し、インターネット上にアップするという経済的負担が少ない技術と方法が、写真撮影の手軽さを推進したのだ。
「考現学」の手法で読み解く
現在の写真をめぐる状況は、日常になにげない光景にレンズを向け、シャッターを切るという、鶴見良行が定義したところの、写真の「芸術主義時代」からさらに広がった現状にあるとみていいだろう。
そうした写真の現在、進行形の写真をこれから考察していくあたり、民俗学の隣接領域である「考現学」を用いることにしたい。考現学(modernology)は、今和次郎が提唱した学問・方法で、古代の遺物や遺跡によって人類の古文化を研究する考古学に対し、現代の社会現象や風俗世相を調査、記録、考察しようするものだった。第一次世界大戦後の東京に暮ら人々の服装、室内における物の配置、公園や街の通行人の風俗などを観察し、データ化したり、スケッチしたりすることで風俗研究の新しい方法を開拓したのだ。
じつを言うと、先程掲げた「日本人は生涯に何回シャッターを切るのか?」について、まだ私は結論どころか、推論も導き出せずにいる。しかしこうした問題についても、考現学手法をもってすれば答えに近づけるのではないか。
またこの連載では、これからたとえば、「七五三」の記念写真や、葬儀で掲げられる「遺影」、あるいは「心霊写真」といった民俗学的対象のほか、AIによるモノクロ写真のカラー化や、スマホの写真はなぜ正方形なのかといったテクノロジーをめぐる感情についても取り上げてくつもりなので、それには「考現学」と銘打つのがふさわしいと思うのだ。
それではしばらく のあいだ、〈写真〉の揺れ動く現在形を観察していくのにおつきあいいただこう。
本文中に登場した書籍一覧
『日本民俗文化大系 第12巻 現代の民俗―伝統の変容と再生』(小学館 1986年)
『日本カメラ工業史――日本写真機工業会30年の歩み』(日本写真機工業会編 1987年)